09/17/2006
連鎖の街で


大連に着いて、一番最初に向かったのは、かつて連鎖街があった方角だった。サザンの『流れる雲を追いかけて』に、ここが登場する。「大連」を初めて意識したのは、この歌と、ユーミンの『大連慕情』だったと思う。

当時、聞いたときは、意味がよくわからなかった。ただ、「大連」という地名が持つ、郷愁を含んだ響きだけが、どこかに残ったんだと思う。

それから長い時間が過ぎて、上海に何度か行き、関連する本を読んで、「いつか大連に行く」って、漠然と感じてた。日本が中国を侵略した時代、その尖兵だった「満鉄」の本社があったところ。「満州」に入植する日本人が、大陸への一歩を踏み出した港町・・・。

中国について書くとき、いつも「日本の罪」を考える。他人の土地に踏み込んでいって、国まで作ろうとした。なんて罪深いことをしたんだろうって。単純かもしれないけど、そう思う。そして、希望に満ちて大連に降り立った入植者を待ち受けていた過酷な運命・・・。

なのに「連鎖街」には甘い響きがある。それは『流れる雲を追いかけて』の歌詞に出てくる、”連鎖の街にあの人と、手に手をつなぎ歩いた夜”というくだりがイメージさせるものなのかもしれないし、その時代に存在してた「ロマン」の残り香なのかもしれない。

連鎖街の誕生は、1929年(昭和4年)。当時は、街路樹の並木が美しい、最先端のショッピング・ストリートだったそうだ。ショッピング・モールじゃなくて、道沿いにお店が連なっていたという。だから、連鎖街。「大連でのお買い物なら連鎖街、御宿泊なら錦水ホテル」というコピーがあったほど、人気の商店街だったそうだ。

「2001年以降取り壊し予定」と書いてあったので、もうないかな?って思いながら、歩いていく。近くまで行くと、いまどきの「ショッピング・モール」が入った巨大なビルがある。「やっぱ、なくなってた」って一瞬思ったけど、もう少し歩いていくと、それらしきエリアに入った。

そこは、比較的ディープな下町。屋台がたくさん出てて、食堂が並び、その奥には、機械の部品などを扱うお店や工場が集まっていた。

考えてみれば、連鎖街ができてから、もう80年近くも経っている。そのままあるわけもない。でも、長い時間をかけ、膨らみに膨らんだ「最先端の街」のイメージと、目の前にあるディープな下町の落差は大きい。屋台で買い食いしながらグルグル歩きまわって、碁盤の目のような構成の街なのに、ふっと方向感覚を失った。

大林宣彦監督の『異人たちとの夏』のように、路地に迷いこんだとき、不意にタイムスリップしてしまう・・・かと思ったけど、実際には、イカの姿焼きを食べるか、どうしようか迷うわたしがいた。その日の大連は香港みたいに蒸し暑かった。このイカ、生のまま、いつからここに並んでいるんだろう。生もので当たると、少なくとも2日は行動が制限されるからなぁ。

それから何度も、何度も、「かつて連鎖街があったところ」に足を運んだ。昼も、夜も。写真はほとんど撮らなかった。たぶん、決定的に思い知らされるから。イメージしてた連鎖街はそのまま、わたしの中に残っていけばいい。

かつての連鎖街、夜。
そのうち、あるお店の看板に「連鎖店」という文字をみつけた。ここがかつで連鎖街だったことを目で見たのは、これだけだったように思う。

『流れる雲を追いかけて』を聴いてて、「連鎖の街」という言葉が出てくるたびに、じんわりしてくるのは、なぜだかわからないままだ。それでいいんだろうな・・・って思う。

それにしても、ヘンなコトに感心するようだけど、中国って、モノを大切にするんだなって、改めて思った。日本が侵略してきた当時の建物でも、こんなに時間が経っても、ちゃんと人々の生活の場として、活躍してる。そんな「物持ちのよさ」に感謝する。だからこそ、こうやって、想像を膨らませながら、散歩できるんだもんね。

今回は行けなかったけど、長春(旧新京)では、偽満州国時代の関東軍本部の建物を、そのまま中国共産党が使っているという。そういえば、上海でも、旧工部局の建物に、市政府労働局が入ってたっけ。「横浜橋」って書かれた橋も、しっかり現役だったし。

近いうちに、なくなってしまうにしても・・・。


参考資料
『井上ひさしの大連 写真と地図で見る満州』
井上ひさし・こまつ座編 小学館

『満州鉄道まぼろし旅行』
川村湊 文春文庫


『上海楽読本』
編著・游人舎



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