ホーム> 60日間のラテンな旅行体験記
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ソ連製の飛行機で、いざハバナへ |
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「飛んだ!」 飛行機はどんどん高度を上げていき、地上がぐんぐん遠くなる。 こんなに飛行機に乗っているのに、離着陸はけっこうこわい。いつもこころのなかですべての神様にお祈りしている。気が付かないうちに姿勢を正し、手をあわせていたりする。 特に今日はキューバ航空の「機上の人」である。 思ったよりはこぎれいで、100人くらいは乗れそうなジェット機(プロペラ機ではない、念のため)だが、翼にロシア語の文字が書いてあるので、やはり旧ソ連製だろう。 かなり古いのではないか…と思うけれど、外装も内装もちゃんとリストアされているので、乗り心地はとてもよい。 ホッとしたところで、足元に妙な冷気を感じた。目をやると、非常口のあたりからドライアイスのような煙がモクモクと出ている(わたしの座席は非常口の隣りの窓側、ゆっくりと足を伸ばせるエコノミークラスの特等席だったのだ)。 「うわっ」 たぶんわたしは声を上げてしまったのだと思う。同時に顔もひきつったかもしれない。慌てそうになったが、なんとか気を静めてあたりを見回した。みんな冷静である。冷静というよりは、煙なんか見えてないといった態度なのだ。 隣りに座っていたビジネスマンは、キューバ航空に乗りなれている感じ。取引先がハバナにあって、しょっちゅう出張しているのだろう。 「あの、この煙は…」 と尋ねてみたら、彼は「ハッハッハッ!」と笑いながら言った。 「これはただのエアコンの煙さ。かわいそうに、心配しちゃって」 わたしはこわがりなのだ。 それにしてもこの煙、なぜか離着陸時に必ず出てくるのだが、けっこう量が多い。ステージの演出のようにあたり一面が煙に包まれてしまう。高度が安定すると止まるのだが、目には見えなくても常に少しづつ出ているらしくて、足元が寒い。とりあえず着脱式になっている皮ジャンの袖を取り外し、足を突っ込みレッグウォーマー代りにしてしのいだ。
14か国語で「あなたの安全のために」と書かれたしおりは、赤青黄黒のみの4色刷り。シンプルな絵で、非常時の対応をわかりやすく説明している。昔っぽい手作り感覚の「YAK−42」の安全のしおりは、搭乗記念のおみやげとしていただいた。
しばらくすると高度が下がり、再びあたりは煙に包まれる。ハバナへ直行だと思っていたら、サンティアゴ・デ・キューバでストップ・オーバーするという。 タラップを降りると、コンクリートの四角い建物が目に入った。2階建てくらいの小さな建物が、どうやら待合室になっているらしい。屋上では手すりにもたれながら、たくさんの人々が手を振っている。お見送りなのか、お迎えなのか、それとも飛行機を見るのが好きなのか…。夕暮れの黄色い、斜めの光に包まれた彼らは、いつまでも手を振ってくれていた。 待合室に入ると、今度は音楽で歓迎してくれる。すばらしい「ソン」の演奏だ。 「ソン」とは今世紀に入ってから広まったキューバの大衆音楽で、マンボやサルサなどのリズムはこの「ソン」が原型になっているといわれる。聞いた感じだと、サルサをもっとシンプルに、プリミティブにしたような音楽だ。 このバンドは、ボーカル、ギター2本、ベース、コンガ、マラカスの6人編成。特にコンガのアドリブはシンコペーションの嵐で、意表をついたリズムが次々とでてくる。マラカスもとても歯切れがいい。
どの楽器も使い込まれ、そうとう年季が入っているが、彼らが出す音には深みがある。いつまでも演奏を聞いていたかったかったが、搭乗の時間となる。
目的地、ハバナのホセ・マルティ空港に着陸すると乗客から大きな拍手が沸いた。わたしももちろん拍手した。みんな平静な顔をしていたけれど、実はちょっと不安だったんじゃないのかしら? キューバの国際空港は思ったよりもずっと大きく(サンティゴ・デ・キューバの空港がとても牧歌的だったせいかもしれないが)、現代的だった。 入国審査も税関も気が抜けるほどあっさり済んだ。長い時間並ぶこともない。入国審査カウンターの天井にはテレビが据えつけてあり、鮮やかな原色でハレーションをおこした画面にコマーシャルが流れていた。 これがキューバのテレビか…。 わたしは何にでも感動していた。 今回はドミニカ共和国の旅行代理店でキューバツアーを手配した。往復の飛行機代、ハバナの4つ星ホテル(朝食、夕食付き/7泊分)、半日市内観光、ホテル−空港間の送迎、ツーリスト・カードの作成など全部込みでUS$675だ。 日本からキューバに行くことを考えるととても安いが、当然、ドミニカ共和国(首都サント・ドミンゴ)までの往復旅費が必要。このようなパッケージ・ツアーは、メキシコのカンクンなどからも催行されているので、時間にゆとりがあれば、おすすめの方法だと思う。 関連リンク 現地ツアー調達のツボ パッケージツアーなので、ちゃんとお迎えが待っていてくれる。すべての手続きを終えて空港ロビーに出ると、わたしの(?)旅行会社の名前が書かれている旗を持った2人の女性を見つけた。
隣りに座っていたビジネスマンは、旗を持った女性と抱き合っている。すっかり顔なじみの様子だった。キューバ初体験のわたしは、指示されたバス(大型の観光バス)に乗り込み、待つこと30分…。やっとバスが動き出した。もうすっかり夜になっている。
が、ハバナ市内に入るとにわかに活気づく。むかし「カリブ海の真珠」と謳われたスペイン風の広場や街並みが、大迫力でせまってくる。コロニアル風の建物(お掃除は行き届いていないが…)、40年くらいまえのアメ車、2台のバスを溶接した巨大なバス…。すごくエキゾチックに感じる。 子供たちやカップル、お年寄りが夜の散歩を楽しんでいる。ファースト・フード店(もちろんアメリカのチェーン店ではないけれど…)もあるし、映画館ではアメリカ製リドリー・スコット監督の映画を上映している。 あれ、アメリカのものは禁輸状態じゃなかったっけ? やはり「常夏の社会主義国キューバ」、ラテン気質なので細かいことにはこだわらないのだろう。 1875年に建てられたという「オテル・イングラテーラ」(ホテル・イングランド)で観光客がひとりだけ降りた。ハバナの中心地にあり、ヨーロッパ風のクラシックな外観を持つこのホテルはきれいにライティングされていて、舞踏会でも開かれそうな雰囲気だった。電気はこんなところでふんだんに使われている。 その他いろいろなホテルに立ち寄っているうちに、早や1時間が過ぎた。そしてついに宿泊ホテルに到着! この近代的な高層建築のホテルは、スペインの投資で建てられたという。資本がスペイン? 所有者はだれ? いつごろできたの? つぎつぎと疑問が涌いてきたが、何もしなかったわりには疲れていたので、一晩寝てから考えることにした。 それにしてもここがキューバ? キューバ政府は観光にとても力を入れているので、観光客のための施設は非常に充実している、と聞いてはいた。しかしロビーの照明はまぶしいほど明るく、ゴージャスな雰囲気。「地面がねじれて、どこか違う国に来てしまったのではないか?」と、一瞬わたしは血迷った。 11階のオーシャン・ビュー、わたしの部屋からは、夜間照明で青く輝くプールとプールサイドのステージで演奏するサルサバンド、その向こうに広がっている深くて暗い海が見渡せた。 部屋のテレビは「DAYTON」(どこの国が作っているのだろう?)、冷蔵庫はDAEWOO(韓国)、エアコンはPANASONIC、フロントのコンピュータはACER(台湾)、空港から乗ってきたバスはメルセデス・ベンツだった。「DAYTON」は正体不明だが、それ以外はすべて異国籍、なかなかインターナショナルな取り合わせである。 つまづいたのは日本のパナソニックのエアコン。 いろいろ試したが動かないので、フロントに電話をした。「すぐ行きます」と言ったけど、来てくれたのは20分くらいたってからだった。 「これはね、こうやるのだ」 二人組みのオヤジ・レスキュー隊のひとりが大仰に言う。 「あなたのルーム・キーは? そう、このキーをここに差し込むと…」 エアコンは「ブルン!」と大きな音をたてて動き出した。 なんだ、日本のビジネスホテルといっしょのシステムじゃない! 日本人のくせに機械音痴と思われたらしいが、名誉挽回はできないまま、オヤジたちは部屋を出ていった。 しかしこのエアコン、大きな音をたてるのは最初だけじゃない。ずっとブルブルしているのだ。うるさいので一度止めた。また暑くなってきたので、再びつけようとしたが、動かない。 どうやらキーの差し込み方にコツがあるようだ。強く差し込まなければ動かないが、強すぎると固定している板がずれてしまう(単に力が余っているだけかもしれないが)。やさしく突っ込こみ、途中で「クッ!」と力を入れてひねる。何かに似ているような…。 プールサイドから流れてくるサルサを聞きながら、わたしはエアコンをつける練習をしていた。これがキューバとの初夜だ。 シャワーを浴びたら、ビールが飲みたくなった。 下のバーで、ビールはUS$1.85。2ドル出したら、15セントはキューバ・ペソで返ってきた。ふたたび「?」マークがわたしのアタマのなかで踊る。 「ドルでもペソでも同じ価値だからだいじょうぶだよ」 ウェイターはこともなげに言う。 ドルとキューバのペソが同じ価値? そんなことあるかいな! よくわからなかったが、とりあえずビールを飲んで寝ることにした。疑問はゆっくり解決しよう。 ぐっすり朝までひと眠りした。 旅行した時期は1996年10月〜11月です。 |
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