ホーム> 60日間のラテンな旅行体験記
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楽しい遠足、シビアな現実、力強く生きるキューバ人 |
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「日本人の方ですか?」 日本語である。 「はあ? ああ、そうです」 今日のツアーガイドは日本語を喋ってくれるのか? 「わたしはカルロスと申します」 なかなかやるな。ちょっと日本語を話す程度だったら、「わたしの名前はカルロスです」とくるはずだ。 このカルロス君、ハバナ大学で4年間、日本語を学び、その後さらに2年間、日本語スキルに磨きをかけたというツワモノだった。 「どうして日本語を勉強しようと思ったんですか?」 と尋ねると、彼はちょっと困ったような表情を浮かべてこう言った。 「いやあ、ドイツ語は枠がいっぱいだったし…。まあ、これからは日本とキューバの貿易は盛んになっていくだろうと思って…」 彼はビジネスに関わる難解な単語もよく知っている。外国人と日本語を喋っていると、ときどきもどかしくなったりするけれど、彼とはまるで日本人同士のように会話がスムーズに進む。しばし談笑、すっかり盛り上がってしまった。 「ところで今日のツアーガイドはカルロスさんなの?」 ずいぶん話してから、いちおう確認してみた。 「いえ、違います。ぼくは別のツアーに行くんです。あっ、もう行かなくちゃ。それでは、すばらしいキューバの休日をお過ごしください。さようなら」 彼は去った。 本当の迎えは、約束の時間を1時間過ぎたころ、現れた。 「わたしは今日のガイドのスサーナです。遅くなってごめんなさい。実は…」 スサーナはキチンと謝ってから、遅れた理由を説明した。 予約済み、ちゃんとお金も支払った3人組のグループが、どこを捜してもいないのだという。ロビーに部屋、プールから売店まで探し回ったが、いない。 「いったいどこに行っちゃったのかしら?」 ミニバスに乗り込んでからも、スサーナは腑に落ちない様子だ。 今日のツアーの乗客はコスタリカ人のオヤジ、若いコロンビア人男性のふたり組、それにわたしの計4人。とってもコンパクトなツアーになってしまった。しかしそのぶん、少ない人数でたくさんのことを話しながら、密度の濃い時間を過ごせたのだ。しかもスサーナは感じがよくて、明るく親切、すばらしい女性であった。
それにしてもカルロスくん、あんなにのんびりお喋りしててよかったのかしら。キューバでは毎日のように「1日ツアー」に行ったけれど、一番早かったお迎えが15分遅れ、今回は1時間遅れ。あとはだいたい30〜40分遅れ。みんなどこかでカルロスのようにお喋りしてるのであろう。
わたしたちが乗っているミニバスはアメリカのフォード製、気になったので尋ねてみた。 「これはね、カナダから来たのよ。ドルショップに行ったかしら? あそこでアメリカ製のクッキーなんかも売ってたでしょ。あれはスペインから来てるの。アメリカ製のものはすべて第三国を経由してキューバに来るの」 なるほど…。 それがキッカケとなり、スサーナはキューバの経済状況についていろんなことを話してくれた。 「ホテルでは1ドル=1ペソで換算してるでしょ。でも街の両替所では20ペソで1ドルのレートなの。これが実際のペソの価値。キューバ人の平均月収は200ペソくらいだから、両替所でドルに換えたら10ドルにしかならないのよ」 そうか、1ドルの価値はそんなに大きかったのか。ある程度、想像はしていたが、平均月収が10ドルとは…。手に入れた1ドルは、3日分の労働に値するということだ…。 「危機が始まったのは1989年ごろから。その後のソ連の崩壊で、キューバの経済はどん底状態になったけど、最近、少しずつよくなってきているわ。禁止されていた一般市民のドル所有が許可されたのは1993年。ある雑誌の調査によると、現在、40%のキューバ人がドルにアクセスが可能なんだって。これってすごい数でしょ? ドルを手に入れることができない人々との格差は、グーンと開いちゃってるのが現実なの」 ハバナ市内半日観光ツアーの帰り道、ガイドとドライバーに感謝して、ドミニカ人たちがチップを徴収したことを思い出した。差し出された帽子のなかには、5ドル札なども含めて、すでに20ドル近いチップが入っていた。つまり一瞬にして2か月分の給料が集まってしまったことになる。 「ラクダ・バス(2台のバスを繋ぎあわせた300人乗りの巨大バス)の運賃は20セント。街のファースト・フードにはドル払いとペソ払いの2種類があるの。例えば『EL RAPIDO』はドル払い、『EL RAPIDITO』はペソ払い。ペソで払う場合は、コーヒー一杯が25セントくらいね」 「ホテルにはケーブルが入っているから、アメリカのチャンネルとかいろいろ見れるけど、普通の家庭のテレビのチャンネルは国営放送のテレ・レベルデとクーバビシオンの2局だけ」 テレ・レベルデの「レベルデ」とはスペイン語で(直訳すると)「反逆者」。この場合は「革命を推し進める者」というニュアンスが含まれているとしても、なんて単刀直入なネーミング! 「国営放送ではテレノベラ(100回くらい続く、大河小説系連続大メロドラマ)も放送しているのよ。特にブラジル製のテレノベラが多いの。ただキューバで吹き替えたものは、なんかよくないのよね。声の演技力が足りないっていうか、入りこめないわ。やっぱり吹き替えはスペインかメキシコね」 そういえば国営放送らしきチャンネルで、「CAMARA ESCONDIDO」というドッキリカメラ系の番組も放映していた。けっこうくだけてるなあ、と思いながら見てたけど、テレノベラもあるのか…。教育番組ばかりじゃなくて、ちょっと安心する。国営放送のニュースのテーマ音楽は、もちろんマンボ! 「そうそう、いまキューバでは日本のドラマがとっても話題になっているのよ」 スサーナが意気込む。 「おしん?」 「おしんはもう終わったわ。ええと何ていうタイトルだったかしら…。あっ、思い出した。『INOCHI』よ。月・水・金の夜9時から放送してるわ。日曜日には一週間分をまとめたダイジェスト版もやってるの。すばらしいドラマだわ」 キューバ人のドライバーも大きく頷く。 『いのち』…。知らないなあ。 (ホテルに戻ってチェックしてみたら、大昔の大河ドラマだった。主演の三田佳子が「セニョリータ(お嬢さん)」と呼ばれていたので、推して知るべし。終戦後間もない東京と津軽が舞台になっており、野際陽子、泉ピン子、宇津井健なども出演していた) 「キューバではサッカーは盛んじゃないの?」 サッカー好きなコロンビア人が質問する。 「全然。この国で盛んなのは野球よ」 そうだ、キューバといえば野球なのだ。1996年の夏、アトランタ・オリンピックでの決勝戦、キューバ対日本の熱戦を思い出した。ちなみに南米人はサッカーが大好き、野球にはまったく興味を示さない。 「日本もなかなかやるわよね」 スサーナも同じことを思い出したらしい。そう言ってニマッと笑った。 「ハバナの旧市街に行ったら、それっぽい女のコをよく見かけたけど、いつごろから始まったのかな?」 引き続きコロンビア人の質問。男性としては気になるところだろう。 「一般市民がドルを持てるようになったころから、売春が急増したの。ほんの数十分で月収分以上のドルがゲットできちゃうんだもの。残念なことだけど、最近、売春はキューバ女性の代名詞になってしまったわ。でもね、キューバ人女性ならだれでも売春するわけじゃないのよ。イタリア人だからってみんなマフィアなわけないし、コロンビア人がみんな麻薬を常用してるってこともないでしょ?」 大胆なたとえ話…。しかしとてもわかりやすい。「確かにそうだ」という表情で、頷くコロンビア人たち。 「空港で荷物をチェックインするとき、コロンビアのパスポートを見せたら、『荷物の重さは?』って聞かれるかわりに、『コカインは何キロ?』なーんて聞かれちゃったりして、カッカッカッ…」
スサーナは磊落に笑った。厳しい経済状況のなかでも、彼女は決してユーモアを忘れない。落ち込むことだってあるだろうけど、上手に笑い話にすりかえながら、明るく、前向きに生きている。わたしはすっかり彼女のトリコになった。
木造の机のうえで、すべて手作業で葉巻をつくっている。吉永小百合の映画、『キューボラのある街』のような昭和30年代の雰囲気が漂う。葉巻のパッケージのラベルが美しい。
国内消費用のお酒を生産している。ラムの強い匂いでクラッとした。ビンは洗ってリサイクル。
内部に流れている川(?)を船に乗って進んでいく。と、音楽が聞こえてきた。観光地には必ずバンドがいたが、まさか洞窟の中にまで「ソン」の生バンドとは…。水によって浸食された岩のかたちもバリエーション豊富。
洞窟のそばのレストランで。
「アロス・コングリ」というあずき入りのキューバ版お赤飯、ユカ(イモ)をゆでたもの、チキンの塩焼き、オレンジなどのメニュー。「アロス・コングリ」は絶品で、チキンの塩焼きと最高のコンビネーション。コロンビア人ふたり組といっしょに、おかわりしまくる。ただしユカは揚げたほうがおいしい。
岩山に原色で恐竜などの絵が描かれていた。革命時のものだそうだ。
小さな町を出発してまもなく、わたしたちのミニバスに若い男女のグループが乗り込んできた。公共のバスを逃してしまったので、便乗するそうだ。次のバスはいつ来るか、誰にもわからない。 エネルギー不足のため、公共交通機関は便数が少なくなっているので、政府もヒッチハイクを推奨しているという。農産物を運ぶような大型トラックや、軍関係と思われるトラックの荷台に、人々がすし詰め状態で乗っているのを何度も見かけた。 カーステレオからグロリア・エステファンの曲が流れてきた。 「あら、わたしの好きな曲だわ。『セランド・ラ・プエルタ(扉を閉める)』ね」 ガイドのスサーナが言った。 あれ、ちょっと違わない? 「いや、この曲のタイトルは『アブリエンド・ラ・プエルタ(扉を開ける)』だよ」 ちょっと間を置いてから、さっき乗りこんできた若い男のコが冷静に言った。 「ああ、そうだったわ。わたしったら何て後ろ向きなのかしら。扉を閉めちゃったら、次が続かないじゃない! ガッハッハッ!」 そう言いながら彼女は例のごとく、屈託なく笑う。 「日本ではどんな音楽が流行っているの?」 スサーナが質問した。 ちょうどパフィーなどが入ったカセットを持っていたので、聞かせてさしあげた。 しかし一同、しーん。 「これはアメリカ的なロック・ミュージックだ」 しばらくしてコロンビア人が言った。ラテン人はサルサとかラテン系のダンス音楽が好きなのだ。 ちなみに彼らが聞いたのはパフィーの『とくするからだ』。確かに音はロックっぽいけれど、歌詞の内容は、サルサにはない、ちょっとヒネったおもしろさがあるんだけどなあ。
だが残念ながら、歌詞のおもしろさは伝えきれないだろう。説明すると、「だからどうした」になってしまうのだ。まえにスチャダラ・パーの『アクア・フレッシュ』の歌詞の内容をスペイン語で一生懸命説明したのに、「ふーん」で終わってしまった苦い経験がある。
「きみはぼくたちの女王様」
どさくさにまぎれて、コロンビア人がそんなことまで言ってくれた。もちろんお世辞というか、何も考えずに口が動いただけなのだろうが、うれしくないわけがない。ああ、『これがわたしの生きる道』なのかしら。持ち上げられて天まで上がったわたしであった。
それにしても、ふたりだけの殻に閉じこもることなく、女を喜ばすお世辞を忘れないなんて、さすがラテン系! 旅行した時期は1996年10月〜11月です。 |
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