ホーム> 60日間のラテンな旅行体験記
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キューバの旅を終えて |
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その日もいいお天気で、強く照りつける太陽の光が街に活気を与えています。日常がまた始まっていくのです。 信号で止まると、隣りには大きなトラクターがいました。ヒッチハイク推奨運動のためか、トラクターの助手席には乗客(?)と思われる女性が座っていました。澄ました顔をして、風で乱れてしまった髪を直している彼女の表情は、ちっとも疲れているようにはみえません。すごくいいものを着ているわけではありませんが、こざっぱりしていて、意志の強さを感じさせる目鼻立ちが印象的な女性でした。 そんな彼女を見ていると、底知れない生命力とラテンの力を感じてしまいます。経済状況がどん底にあっても(1994年ごろに比べれば、ずっとよくなっていますが)、前向きに進んで行こうとする心意気が伝わって来るのです。 キューバ人たちには「どんなに厳しい状況にあっても、人間は明るく生きる能力を持っている」と教えてもらいました。人間が持っている力には果てがなく、だからこそキューバは生きているのだと思います。 ハバナの旧市街を初めて訪れた日、ドルに群がる人々やそれっぽい女のコたち、爆撃を受けたみたいに崩れ落ちた壁、ただぼーっと座っている老人たち、質実剛健なだけで生産性の低そうな機械などを目の当たりにして、大きなショックを受けました。 すばらしい施設は観光客のためにだけ機能し、キューバ人たちは食べるものにも事欠く状態。また同じキューバ人のなかでも、ドルを持つ者、持たざる者の大きな格差が広がりつつあるような状態…。 仮にアメリカが経済制裁を行わなくても、人間に欲望がある限り、社会主義は理想郷でしかないのではないか? 世界一の大国を相手によくがんばったけれど、もう限界だ、と思って泣きたくなりました。悲観的な考え方ですね。 もしあのまま市内観光を終え、残りの日々を隔離されたホテルのプールサイドで過ごしていたら、「キューバは悲惨な状況で、人々は疲弊しきっている」という一部分をこの国の現状だと思い込んだまま、帰途についていたかもしれません。まあ、それでもわたしが体験したことは、キューバのほんの一部でしかないのですが…。 「うつくしいもの、すばらしいものと、そうでないものが混在するハートブレイク・ワンダーランド」という長いタイトルをつけた章を書きましたが、これはキューバ滞在中の正直な気持ちです。美しい風景、すばらしい人々がたくさんいる一方で、そうでないものもあって、その落差があまりにも大きいのです(でもそんな落差は、地球上の至るところに存在しているのかもしれません。ただ、キューバでは、はっきりと「見えて」しまうだけで…)。 しかしこの国で現実を生きている人々にとっては、「ハートブレイク」なんてなまっちょろいものに構っている場合ではありません。少なくとも彼らは生きていかなければならない、切実な状況に置かれているのです。 マイアミで旅行会社を経営しているキューバ人女性と出会いました。彼女はカストロ体制に疑問を抱き、アメリカに亡命、ビジネスを成功させたとのことです。 彼女はカストロに対して憎悪に近い感情を持っているように感じました。カストロは独裁者だと言います。キューバに共産主義が存在しなければ、母国を捨てることはなかったと…。
現在、アメリカにはおよそ百万人のキューバ系住民がいます(フロリダ州だけで、150万人という説もある)。約3万人の人々が手作りのイカダに乗り、キューバ脱出を図ったのは94年のことでした。
「映画の中のディエゴは、いろいろな問題の改善に努力し、新しいものを求めている。その姿勢には共鳴しますが、キューバの中で活動を続ける道を選びます。外国に行くのは簡単です。国の困難さから脱出するのではなく、残って努力するべきだと思うのです」。
「国を出た人も、残る人も、対立せず、理解し合えなければいけないと思う。アメリカの海岸でコーラを飲みながらキューバ批判をするような人の言葉に価値はないと思いますが、私は彼らも尊重します。だれにでもやりたいことをやり、自分の将来を決める権利があるからです」。
カストロはホセ・マルティが確立したラテンアメリカ諸国の独立に関する理論をもとに、超大国の支配から逃れるために共産主義を選択したのであって、最初から共産主義国家の樹立を目指していたのではないといわれています。
まあ、そんないい加減さが「熱帯ラテン系共産主義」といわれる所以であり、のんびりしていて陽気、何でも先伸ばしにしちゃって、愛想がいいけれどどこか醒めてる、そんなラテン気質を持っているからこそ、本家も含めてほとんどの共産主義国家が崩壊したいまも、キューバは存続しているのでしょう。
旅行した時期は1996年10月〜11月です。
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