ホーム> 60日間のラテンな旅行体験記
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モニカとの出会い |
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「足長おじさん」的なシステムだが、学業を援助するための「援助金」を彼女の家族に渡すのではない。わたしの銀行口座から引き落とされる5000円(ひと月あたり)は、彼女が住む地域の発展、自立(学校建設、予防接種の実施、環境や衛生状態を改善するための工事など、さまざまなプロジェクト)のために使われる。 世界でいろんなことが起こっているのに、何だか自分が平和ボケしているような気がして、できる範囲で何かを始めたくて、この援助機関に参加したのは95年6月のことだ。 モニカの家族と文通し、送られてくるモニカの写真や彼女が描いた絵を見る。ニュース・レターで援助機関の活動内容や、世界の子供たちの厳しい現実を知る。 でも何か「手ごたえ」が足りない。だけど「手ごたえ」とはいったい何だろう?
こういった活動では、スポーツみたいな充実感は得られにくいのに…。いろいろ考えたが、考えれば考えるほどわからなくなった。モニカに会うことにしたのは、実際に彼女と会えば、ほんの少しでも何かが「わかる」かもしれないと思ったからだ。 地域に密着した活動を行っているというローカル・オフィスに立ち寄ってから、いよいよ本番、モニカに会いに行く。彼女が住むエレーラという地域は、もともと工業地帯だったが、そのうち職住接近理論(?)により、工業地帯で働く人々が住むようになったのだという。 モニカは両親と祖母と2人の妹たちの6人家族。いとこなどの親戚も近くに住んでいるそうだ。子供たちはとてもかわいいお洋服を着て迎えてくれた。 モニカは水色のタンクトップに赤いミニ・スカート、すぐ下の妹マリア・ホセ(5歳)は緑のチェックのオーバー・オール、いちばん下の妹ロサ(3歳)は、お花模様のワンピースを着ている。子供たちやおかあさんだけでなく、おばあさんやいとこ、すぐそばで働いているおとうさんなど、みんなとご挨拶。 あいにくの雨、加えて停電中だったので、あたりは薄暗いが、お部屋のテーブル・クロスは目が覚めるようなオレンジ色。しばらくしてモニカのお母さんが、テーブル・クロスと同じ色のオレンジ・ジュースを運んできてくれた。 モニカは学校の教科書を持ってきて、勉強の成果を披露してくれる。 「これは牛、これが犬、犬のスペルは…」 彼女はハキハキと発表(?)していく。 おみやげとして持っていった、折り紙、紙人形、紙風船、けん玉、おはじき、絵ハガキ、ノート、色鉛筆などを見せると、子供たちはお絵描きに熱中しはじめた。日本的な折り紙や紙人形などに対しては、意外とクールな反応。 折り紙は大人にウケた。わたしが試しに鶴を折ったら、同行した現地職員は折り紙に熱中しはじめ、わたしはてっぺんの棒に玉が突き刺さるまで、けん玉を離せなくなってしまった。大人が子供のオモチャに思わず熱中しちゃうのは、万国共通? 子供たちやおかあさんとお話したり、いっしょにオモチャで遊んだり、家族のみんなと写真を撮ったりしているうちに、あっという間に時間が過ぎた。 別れ際、モニカがいま描いたばかりの絵をプレゼントしてくれた。オレンジ色の色鉛筆でふたりの子供が描かれた、とってもセンスがいい絵だった。 子供たちは姉妹揃ってみんな絵が上手だ。みんなの才能がグングン伸びていくといいなあ。
降りだした雨に濡れないよう、モニカがくれた絵をバッグの奥深くにしまいこんだ。 ドミニカ共和国にはおよそ3万人、首都サント・ドミンゴではおよそ7000人の子供たちが援助の対象になっているのだという。「援助者」の主な居住地域はカナダなどの北米や、オランダをはじめとしたヨーロッパだそうだ。 子供たちに会いにくる「援助者」の数は、年間に100人以上とも、ほぼ毎日とも…。欧米が寒さに震える冬場などには、急ピッチでリゾート開発が進む亜熱帯のドミニカ共和国へと、たくさん「援助者」たちがバケーションを兼ねて、子供たちを訪問するのだという。 モニカと過ごした時間は1時間半ほど。プロジェクトやメイン・オフィスの見学、質疑応答などを含めても、訪問に要した時間は4時間ほどだった。 昨日の雨降りがウソのような快晴である。プールサイドでぬけるような青い空と風にそよぐヤシの木を見ながら、この同じ青い空の下で生活しているモニカたちのことを考えた。 彼女の家では一家5人、両親と三人姉妹が一間で暮らしていた。食事をつくり、食べ、勉強し、テレビを見るのも、寝るのも、すべてその一間の部屋だ。 わたしが訪問したときもそうだったが、モニカが住んでいる地域では頻繁に停電するという(高級住宅地では、停電はほとんどないそうだが…)。停電中、しかも雨が降っていたせいもあるだろうが、日当たりがあまりよくない部屋では、モニカのおかあさんの顔色も曇っているように感じられた。 初めてこの国を訪れた1990年ごろに比べ、ドミニカ共和国は格段に豊かになっていた。東京ほどではないが、携帯電話もときどき見かける。 ウェンディーズがある。まだ開店して間もないようで、若者向けのテレビ番組では「ウェンディーズに行こうツアー」というのをやっていた。バスを1台仕立ててウェンディーズへ行き、騒ぎまくるというものだ。 そのウェンディーズに行ったら、前に並んでいたお金持ちっぽいおばさんは、支払い時にアメックスのクレジットカードを差し出した。 高所得層向けのスーパーで買い物をしたら、リンゴが1個85円、スライスチーズが160円、ビール1本122円、ミネラルウォータ(1.5リットル)が180円ほど。東京並み、とまではいかないが、決して安くはない。 ミネラルウォータやスライスチーズは贅沢品だろう。でもこのスーパーは、地元っぽい、身なりのいい人々でけっこう混雑しているのだ。 モニカ一家の月収はUS60ドルとレポートに書いてあった。「いくらなんでも…」と思い、現地事務所で確認したところ、これは1991年の数字で現在はもっと増えているだろうと言われたが、歴然とした貧富の差が存在することは否めない。 ウェンディーズでは盛大なお誕生日パーティが開かれていた。主役の女のコはモニカと同じくらいの年ごろで、彼女の体と同じくらい大きいクマのぬいぐるみのプレゼントをもらっていた。 「この国は以前に比べてとても前進しているように見えるけど、モニカたちの生活は貧しいようです。どうしてこんなに所得格差が広がっていくのしょうか」 援助機関の事務所長に尋ねたら、こんな答えが返ってきた。 「この国の人々はとっても明るい。だから貧しさなんて気にしないのです」。 「あと、モニカのお母さんが、無料で接種できる、義務づけられている予防注射を受けさせなかったという話を聞いたんだけど、なぜかしら? お母さんは『教会に行ってたから』って言ってたけど、予防注射の受付期間は1週間ほどあったし、テレビのコマーシャルでもしょっちゅう宣伝してたんですよね」 「何の理由もなく、しなくちゃいけないことをしない。そういうことがけっこうあるんです」 そもそも援助機関という存在そのものが、「格差」の象徴に思えてしまう。 「何か質問はありますか? もしないようなら、わたしが(この現地事務所の運営状況などを)プレゼンテーションします」 モニカと会い、彼女が住む地域で行われているプロジェクトの進捗状況を見学し、現地事務所に戻ると、事務所の責任者がわたしに尋ねた。プレゼンテーション? まるで外資系の会社みたいじゃない? もちろんこういったNGO組織はステイタス意識だけでは運営できない。並大抵ではない意志と意欲が必要だし、彼らが抱えているリスクは非常に大きい。世界ではこういったNGO組織の事務所が襲撃され、現地職員が殺されるといった事件も起きているのだから…。 でも同じ国に住みながら、十分な教育を受けることができた「エリート層」が「援助する側」にまわり、貧困層が「援助を受ける側」にある「二重構造」を目の当たりにすると、やっぱり戸惑ってしまうのだ。 モニカに会えてほんとうによかったと思う。でも「彼女に会えば、何かがわかるかもしれない」なんて、とんでもなく甘かった。「わかる」どころか、ますますわからなくなったような気がする。 援助に関するセミナーに参加したときの講師が、「援助をしながら学ぶという姿勢を持つことが大切だ」と言っていたのを思い出す。大切なのは「わかる」ことではなく、わからないことを理解しようとする姿勢を持つこと、あきらめずにできることからやっていくことなのかもしれない。長い時間をかけて積み重なってきた、簡単には解決できない問題がたくさんあるのだから…。 「お元気でお過ごしのことと思います。あなたがこの国を訪れ、十分な満足を得られたことを願っています。わたしたち一家があなたに会えてよかったと思っているように…。あなたがわたしたちの家を訪れてくれてから、わたしたちはずっと幸せを感じています。モニカは勉強がとっても好きで、毎日学校に通っています。時間が空いたときには、家具を捨てるのを手伝ったり、妹と遊んだりしています。(援助機関を通じて)あなたが献金してくれることに感謝しています。たくさんのプロジェクトが実施され、わたしたちの地域に大きな利益を与えてくれています。愛と感謝をこめて、さようなら」 わたしはモニカたちと撮った写真を送った。愛と感謝をこめて…。 (1ペソ9円で換算) 旅行した時期は1996年10月〜11月です。 |
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