ホーム 60日間のラテンな旅行体験記 インデックスマルティニーク

チャーハンとビーフン


小型プロペラ機に乗って、マルティニークの首都フォール・ド・フランスへ向かう。

わずか6段ほどのタラップを昇り機内に入ると、通路を挟んで座席が2列づつ並んでいた。バスみたいな機内に、15名ほどの乗客がちんまりと座っている。

座席のリクライニングはないが、エアコンはちゃんとついている。乗務員がハッチを手で閉める。プロペラ機はゆっくりと動き出し、戦争映画に出てくる「ゼロ戦」のようなエンジン音をたてて飛び立った。

このような昔ながらの飛行機のほうが、安全だと誰かが言っていた。コンピュータでほとんど制御されている最新鋭のジャンボ機に比べて複雑な故障が起こりにくい。低空を飛行するので、イザというときにはパラシュートで脱出すれば、けっこう助かる確率が高いという。飛行機の窓から見下ろすと、確かに低空飛行だ。小さな島の真っ白に輝くビーチまではっきりと見える。エメラルド・グリーンのカリブ海が広がっていた。

アメリカ人のスチュワーデスはとても明るい。カラ元気ではないか?と不安になるほど明るかったが、プロペラ機は、無事、マルティニーク島のラマンタン国際空港に到着した。空港の天井はガラス張り、自然光がふんだんに入りこむ構造になっている。

エキゾチックな顔立ちの女のコがいる空港のインフォメーションでホテルを予約。彼女はスラスラと英語を喋り、手際よく仕事を進めた。ホテルのバウチャーを手にタクシー乗り場へと向かう。

しかしタクシー乗り場では、誰もわたしに注意を払わない。ドライバーたちは、のんびりとベンチに座ってお喋りをしている。「タクシー探してるのかい?」「どこへ行くんだい?」などと言いながらおじさんたちが寄ってくるだろう、と思っていたのでちょっと拍子抜け。タクシーはキチンと整列して待機している。わたしは一番前に停車していたタクシーの窓に顔を突っ込んで言った。「ボン・ジュール・ムッシュー!」。

プロレスラーのような黒人のドライバーは、わたしがほとんどフランス語が喋れないことを察知してからは黙ったままだった。沈黙の車内に窓から熱い風が吹き込んでくる。空は抜けるように青く、太陽の光は力強い。サトウキビ畑が広がる郊外を抜け、町に入った。看板、建物、人々の洋服・・・、青い空とオレンジの太陽のコントラストのように、町中に鮮やかな色が溢れている。

「マルティニークってとってもきれいね」

単語を並べて言ってみた。通じるかしら?

するとドライバーは急に後ろを振り向き、後部座席に座っているわたしをじっと見て、真っ白な大きい歯を全部見せてニカッと笑いながら答えた。

「そうだろう、きれいだろう」

これだけのことで雰囲気はぐっと和んだ。わたしのフランス語は悲惨、彼の英語も似たようなものらしい。わたしが緊張していたのと同じように、彼も緊張していたのだろう。

「ここのフルーツはすごくおいしいよ」

と、すっかりリラックスした彼。

簡単な会話とはいえ、コミュニケーションがとれるとウキウキしてくる。ウキウキしたままホテルに着いた。料金は102フラン(約2200円)だったが、あいにく細かいのがない。100フラン札を2枚差し出すと彼はちょっと困った顔をしたが、すぐに笑顔に戻って100フランを1枚だけつまみながら、何か言った。「いいよ、いいよ、オマケしとくよ」というような意味のことだったのだろう。わたしたちは固く握手を交して別れた。

予約したのはガイド・ブックで見つけたホテルだ。「フランスの貴族になったような気分を味わえるかもしれない」という一文に惹かれて選んだ。2つ星で1泊250フラン(税・サービス料込み、朝食別。約5500円)である。四方に長さ1メートルほどのポールが立っている木製の正方形ベッド(ダブル・サイズ)が印象的。確かに貴族風である。

壁にはココナッツの汁を飲んでいる黒人男性の素朴な絵が掛かっている。机の上に置かれた電気スタンドの色合いも素晴らしい。本体が青、笠はオレンジだ。そう、空と海の青、太陽のオレンジ・・・。

町の中心地にあり(隣りは郵便局)、立地条件もいいこのホテル、ちょっとレトロな雰囲気がすっかり気に入った。窓から射しこむ夕陽に照らされ、南国モードが加速する。さあ、マルティニークの始まりだ。

夕方、町に出た。首都フォール・ド・フランスには、全人口の約30%にあたる11万人ほどが住んでいる。3〜4階建ての建物が両脇に立ち並ぶ細い路地は活気に溢れ、買い物客だろうか、たくさんの人々が行き来している。

コロニアル風の建物はいかにも港町らしい。色彩が豊かで、看板などのデザインもセンスがよい。薬局の壁にも、アフリカを感じさせる独特の色調を持つエキゾチックな絵が描かれている。そんな壁画は町に自然と馴染んでいるのだ。

しばらく散歩をしているうちに、中華料理屋を発見。店先のショーウィンドウにはチャーハン、春巻、炒め物などが並んでいる。旧知の友に会ったような懐かしい感覚、日本を離れてまだ数日しかたっていないのに、大げさかしら?

お持ち帰りもできるが、中をのぞくとレストラン(というよりは食堂か?)になっている。そういえばもう夕方なのにお昼を食べていない。わたしのお腹はチャーハンに反応して「ぐぅ」と情けない音をたてた。迷わず中に入り、チャーハンとビーフンを注文する。

あとになって「チャーハンと春巻」、あるいは「ビーフンと炒め物」の組み合わせにすればよかったと思ったが、突然思い出す空腹は引力が強い。空腹でスーパーの食料品売り場に行くと必ず買い過ぎてしまうように、空腹でレストランに入るとついつい頼み過ぎてしまうのだ。しかし、これはやり過ぎだった。

注文を終えると食堂に形容しがたい雰囲気が漂いはじめた。ザワザワとしたわけでもないし、歓声が上がったわけでもない。

「なぜひとりなのにチャーハンとビーフンを頼んだのか?」、そう聞きたくても聞けない心のざわめきが空気に反応したのだ、と後になって気が付いた。食堂には従業員がふたりほど、客が数人いる。

「誰かもうひとり来るの?」

しばらくたってから中年の黒人女性が英語で尋ねた。それまで彼女たちがフランス語で何か「ぶじゅぶじゅ」と囁きあっていたのは、フランス語が喋れないわたしに誰がどう質問するか、ということだったのだろう。そして彼女がその任務についた。「ひとりで両方とも食うのか?」と聞かないところがミソである。

「いや、別に誰も来る予定はないけど・・・」

語尾は「・・・」になった。なぜなら、任務についた女性は「いや、別に誰も」と答えた時点で通訳を始めてしまったのだ。すべてはカタがついた。彼女がフランス語に訳したその瞬間、この食堂にいたすべての人々の鼻の穴が少し広がり、「あきれたな」という気持ちがこめられたため息がもれたような気がしたのは、気のせいだったのだろうか?

いや、気のせいではない。わたしは見た。向かいに座って食事をしていた男性が苦笑いをしながら、ゆっくりとスプーンを口に運ぶ姿を・・・。

さすがに、やはり全部は食べきれなかったので、お持ち帰り用に包んでもらった。食べ残しのチャーハンとビーフンが入った袋を持って、「熱帯のフランス」を歩いていく。マルティニークは今でこそ「フランスの海外県」と呼ばれているが、以前は植民地、独立せずに海外領土として残り、現在に至っている。

あるとき、フランス本土に住むフランス人に「マルティニークはフランスだから・・・」と言ったら、ちょっとヘンな顔をしていたが、マルティニークの人々の感覚はまぎれもなくフランスなのだ、とわたしは強く感じた。スペイン人なら単刀直入に「よく食うな」と言うだろうし、英国人なら鼻の穴を広げることはないのではないか?

他のカリブの島々を訪れたときも感じたことだが、旧宗主国の国民性はちゃんとその国(島)に根づいているようだ。スペイン語圏ならスペイン人的、英語圏なら英国人的、といったように…。大航海時代以降の何百年かの間、激しい領土争いが繰り広げられたため宗主国が頻繁に変わったケースも多いが、近代になってその国が形づくられるまで、いちばん強い影響を与えた旧宗主国の国民性は、言葉とともにその土地にしっかり根づいているような気がしてならない。

チャーハンとビーフンから大航海時代にまで思いを馳せ、マルティニークの一日目は終わった。

(本文中は1フラン22円で換算)

次は、謎のマダム(?)と過ごす1日

マルティニークの写真

旅行した時期は1996年10月〜11月です。



旅行して、どんな人たちと会った? どんな体験をした? 何を感じた?
http://www.page.sannet.ne.jp/megmeg/
Copy Right (C) 1997-2000 Emico Meguro All Rights Reserved.