ホーム> 60日間のラテンな旅行体験記
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修学旅行に合流! |
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ツアーの開始時刻は9時だと言われたが、遅れるだろうとは思っていた。まあ、念のため、約束通りの時間に旅行代理店に顔をだしたが、高校生たちが揃ったのは10時であった。 先生が同伴しているが、あまりうるさく言わない。うるさく言わないからのんびりするのか、のんびりしているからうるさく言わないのか…、コロンブスの卵状態だが、規則に縛りつけられない修学旅行は見ていて(参加していて?)気持ちがいい。ダラダラし過ぎであることは否めないけれど、服装も自由だし、みんな陽気でスレていないのがよい。無邪気にディスコに誘ってみたり、写真を撮ってみたり、英語で喋りかけてみたり(見るからにオリエンタルな顔立ちなわたしなのに)、遠くからわたしの名前を呼んでみたり…。 バスに乗り込むと、先生が出欠を取る。 「スアレス・ガブリエラ」 「プレゼンテ!」 「エルナンデス・マリア」 「プレゼンテ!」 「プレゼンテ」とは出席しているということ、日本なら「ハイ!」って答えるけどね。昔よく見ていたメキシコの学園ドラマのワンシーンに紛れこんでしまったようで、ワクワクしてしまう。 わたしが便乗した修学旅行の高校生たちのバスは、ゆっくりと勾配を登っていく。エアコンなし、リクライニングなし、エンジンフードが前に突き出たかなり旧式のタイプだが、席は固定式とはいえリクライニング気味で、足元もゆったりしている。 ガイドのカルロスは、「22キロ離れたところに行く」と言っていたが、到着するまでに1時間かかった。生徒のひとりが持っていたサルサのカセットを大音量で流しながら、バスはのんびりと山道を走り続けた。 悪そうなヤツは後ろの方の席に座り、まじめそうなタイプは前の方に座るというのは、万国共通らしい。わたしはガイドのカルロスの近くに座ったのだが(つまり前の方)、隣りになったのは学級委員風の少年。 「ボクハ、ウツノミヤニ、5ネンカン、スンデイマシタ」 いきなり日本語で話しかけてきた。 彼の家族はいまも宇都宮に住んでおり、彼だけがペルーに戻ったのだという。いかにも勉強ができそうで、顔立ちもよく、服装もおしゃれ、ビデオカメラまで持っている上流のお坊ちゃまタイプである。このビデオは秋葉原で買ったのだという。 「チョット、コレヲミテクダサイ」 と彼はビデオを差し出す。ファインダーを覗くと、お風呂上がりと思われるタオルを巻いた少年が、みんなに押さえつけられ、タオルを剥がされている光景が写っていた。 話を聞かずに騒ぎまくる高校生たちに、ガイドのカルロスが喝を入れると、「アノヒト、オコッタ」などと淡々と言い、「インカノトイレニ、イキマシタカ?」などと澄ました顔で尋ねるお坊ちゃま。それを言うなら「インカのトイレ」じゃなくて「インカ風呂」でしょ!
本人はトボけているつもりはないのだろうが、妙におかしい。 「あの岩はコンドル、こっちの岩は象…」 ガイドのカルロスが大きな声で説明してくれる。 このプログラムは高校生用に組まれたものなので、そのあとは大遠足となった。高度2750メートルのカハマルカの町から、バスで1時間ほど登ったので、現在の高度は3500メートル。大岩に登り、渓谷を下り、原っぱを歩き、橋を渡って川を越える。疲れを感じて深呼吸をしてみるが、高地にいるので酸素の量が少ないらしく、肺が満たされない。まだ高地に着いて2日目、薄い酸素にカラダが慣れていないのに、こんなヘヴィーな山登りなんて…。しかし気がつくと先頭グループの一団にいた。 バスが待つ最後の丘を登りきり、お手洗いでスッキリ。岩がたくさんあるので物陰は多く、どこでもできそうなもんだが、天こ盛り状態の高校生たちに見つからずに成し遂げるのは不可能。我慢に我慢を重ね、山を登りきっての排出はとても気持ちよかった。 町に戻る途中、わたしが宿泊しているホテルに立ち寄る。 「1973年の法令で大農場の所有が禁止され、カハマルカにあった90以上の大農場が閉鎖されました。このホテルは閉鎖された農場を改造し…」 カルロスが汗を拭きながら説明しているが、高校生は聞いていない。それにしても、宿泊しているホテルが修学旅行の見学コースに含まれているなんて、ささやかな喜び。 わたしたちを乗せた大型バスは、舗装されていない埃っぽい坂道を下り、再び町へと向かった。その途中、小学校低学年くらいの男のコがバスに向かって石を投げた。 町とホテルを結ぶ坂道沿いには、貧しい人々が住む家が並んでいる。汚れたセーターを着た、裸足の子供たちが走りまわる。彼らは学校には行っていないのだろう。若いおかあさんが子供をおぶって歩いている。 「この町ではカンペシーノ(先住民)が多いみたいだけど…」 カルロスに尋ねてみた。 「カハマルカの人口は12万3000人くらい。そのうち70%がカンペシーノなんだ。このあたりはペルーでもカンペシーノの比率が高い地域だよ」 「若いおかあさんが目立つよね」 「14歳くらいで結婚して、子供を産むのが当たり前なんだ。彼女たちは何百年も、いや、もっと前から、先祖代々続いている習慣を引き継いでいるだけさ。ただ彼女たちを取り囲む状況や環境が変わってしまったんだ」 さっきの奇岩が並ぶ高原では、カンペシーノの子供たちがガムなどを売っており、「お金ちょうだい!」とせがむ子供もいた。でもそれはペルーでは頻繁に見かけられる光景だ。 16世紀にスペインに征服されたペルー。それから400年以上が過ぎた現在も、多くのカンペシーノたちは畑で獲れた作物を市場で売るなど、昔ながらの生活を送っている。教育を受ける機会がないまま結婚し、何人もの子供を産むが、収入は少なく生活はきびしい。3回の食事をとることもままならず、子供たちを学校に通わせる余裕もない家庭は多い。 「高校生たちは、ほんとのんびりしてるんだから…。ボクたちは9時から13時までのギャラしかもらってないのに、もう3時だよ」 ガイドのカルロスはブツブツ言いながら、カレーライスを食べる。昨日は超高価なスペシャルランチだったが、今日はお得な定食である。スープと、ほかほかのじゃがいも+柔らかいブタ(?)肉入りのカレーライスで5ソル(約225円)。これで充分、コスト・パフォーマンスもバッチリだ。 食後のコーヒーもそこそこに、カルロスとカハマルカ郊外観光へと出発。岩山をくり貫いて作った窓が並んでいるインカのお墓を見学。トルコのカッパドキアにどこか似ているが、ここは地下都市ではない。内部のお墓に水が溜まるのを防ぐために窓がついているのだそうだ。さらに2か所の農場を見学した。 どこに行っても牛がいる。法令で大農場の所有が禁止されても、やはりカハマルカは乳業のメッカなのだ。農場と牛、リャマ、ブタなどの家畜、走り回る犬とのんびりした田園風景がクルマの窓を流れていく。 日暮れが近づき、カルロスは名所旧跡めぐりのスピードをグーンとアップ、市内観光へと突入した。1532年にスペインの征服者フランシスコ・ピサロが、インカの皇帝アタワルパと会見したというインカの遺跡、お決まりのカテドラル、教会などをわたしたちは風のように巡った。 薄く、頼りなげな、夕方の太陽の光に照らされたカハマルカの町が過ぎていく。わたしのペルー滞在も、残すところあと1日。明日はリマに戻り、夜中の飛行機でニューヨークへ向かうのだ。 プレイされる曲は幅広く、ラテンヒップホップ、ラテンテクノ、トロピカルなロック、サルサ、メレンゲなど。特にトロピカルなロックが気に入ったので、DJにグループの名前を聞きにいった。ここでもDJは羨望の的らしく、DJブースのまわりは高校生が溢れている。 「さっきかかっていた曲、だれが演奏してるの?」 とてもカッコいいDJがラテン版MTVビデオのパッケージを差し出したので、すかさずメモする。SEGURIDAD SOCIALというグループ、曲名は『QUIERO TENER TU PRESENCIA』。 「どこの国の人たち?」 カッコいいDJはウッと考え込んでから言った。 「ベネズエラだ!」 そのあと高校生にナンパされていっしょに踊っちゃった、充実の一夜。 「カハマルカの人たちは、みんなとっても親切ですよね」 わたしがそう言うと、彼女は深く頷いた。 「カハマルカ人は、『自分がたくさん持っていなくても、相手がそれを必要としていれば差し出す』って言われているの。たとえ教育は充分に受けていなくても、人を思いやる気持ちを持っているのが、カハマルカ人なのよ」 カハマルカ人に限らず、それは多くのペルー人に共通して見られる傾向ではないだろうか。急がない、慌てない、時間は守らないけれどやさしい、人を押しのけない、明るくよく喋る、愛敬がある、ユーモアと思いやりがあり、前向き、でもけっこう傷つきやすい、だからほんとうにやさしい…。 以前、間違えて逆方向のコンビ(乗り合いのミニバス)に乗ってしまったときのことを思い出した。途中で気がつき降りようとすると、車掌の男のコがコインを渡そうとする。 「わたしが間違えて乗ったんだから、返してくれなくていいのよ」 「でもあなたの目的は果たされなかったんだから、もらうわけにはいかないよ」 彼は暖かい目をしていた。 「でも…」 「いいんだよ、取っておきなよ」 公共交通機関がほとんどないペルーでは(長距離の国鉄などを除く)、市民の足はもっぱらコンビだ。コンビの営業は免許制になっているが、違法な営業も多いといわれている。まとまったお金ができると中古車を買い、友人同士でコンビを始め、手っ取り早く稼ぐ。そのためコンビ業界は過当競争になっているようで、都会を歩いていると、コンビの車掌がクルマから身を乗り出して「乗ってきなよ、乗ってきなよ!」と営業している姿をよく見かける。 きびしい状況でも、たとえ過当競争であっても、わたしが乗ったコンビの車掌は、彼の理屈に合わないお金は受け取らなかった。ペルーではそんな出来事に何度も出会い、忘れそうになった「正直さ」や「やさしさ」を教えてもらったように思う。 「カハマルカ人気質」を教えてくれた女性は先にタクシーに乗ってしまい、ひとりになったわたしは、暗い深夜の待合室で送迎バスを待ちながら、そんなことを考えていた。 旅行した時期は1996年10月〜11月です。 |
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