ホーム 60日間のラテンな旅行体験記 インデックスペルー

ペルーのデータ


交通
マイアミからおよそ5時間30分。ロサンゼルス、ニューヨークなどからも便がある。

通貨
ソル 96年11月の交換レートはUS1$=2.545ソル(本文中は1ソル45円で換算)。

面積
約128万5216km2(日本の約3.4倍)

人口
約2353万人(1995年)

首都 リマ

日本との時差 
マイナス14時間

気候と自然
熱帯および亜熱帯圏に属するが、国土を南北に走るアンデス山脈により、海岸地帯、アンデス高地、東部森林地帯に分けられ、気候はそれぞれまったく異なる。

海岸地帯に位置するリマでは、気候は比較的温暖。アンデス高地では雨季(11〜3月)と乾季(4〜10月)に分かれ、1日の気温の上下幅が大きい。また森林地帯(ジャングル)では、1年を通じ気温、湿度ともに高い。

国土の高度差も大きく、アンデス山脈のワスカラン山は標高6768メートル、ジャングルに位置するイキトスでは117メートル。

標高500メートル以上の高地が国土の3/10、森林地帯が6/10、海岸砂漠地帯が1/10を占める。

海岸地帯はほとんど雨が降らないため(しかしフンボルト海流の影響により、湿度は比較的高いという特異な気候)砂漠化した不毛の砂漠地帯だが、オアシスにはリマなどの大都市が形成されている。

歴史
プレ・インカ時代(チャビン、ティワナコ、ナスカ文明など)を経て、13世紀に入るとクスコを拠点としたインカ帝国が台頭、アンデス一帯に大きな勢力を持つ。しかし1532年、インカ帝国はフランシスコ・ピサロが率いるスペインの軍隊に滅ぼされ、ペルーは南アメリカのスペイン植民地支配の中心となった。

独立は1821年。1824年に南アメリカ北部独立の父、シモン・ボリーバルがアヤクチョの戦でスペイン軍を破り、ペルーはスペインから完全に解放された。

独立後は半世紀にわたる軍人支配、チリとの領土戦争の敗北(1879年)、20年にわたるピエロラの文民政権、レギアの独裁政権などの変遷を経て、1920年代後半にアプラ党(ラテン・アメリカを包括する民族主義運動組織)と共産党が台頭するが、その後も政治は安定せず、クーデターが繰り返された。

1968年、フアン・ベラスコ将軍によるペルー革命が起こり、外資系企業の国有化、南アメリカ最大といわれる農地改革法による大農園の収用、新聞の国有化、ケチュア語の公用語化、社会主義諸国との関係強化などの改革を推し進めたが、1975年、穏健派のモラーレス・ベルムデスによる軍内クーデターが起こり、革命路線は後退する。

1980年に民政移管されるが、債務危機、インフレ、貧困、自然災害、テロリズムなどの諸問題に直面し、「失われた10年」と呼ばれる苦難の時代に突入。

フジモリ大統領の就任は1990年。徹底したテロリズム撲滅政策、国営企業の民営化などにより、テロは激減、経済成長率も飛躍的に上がった。しかし1996年12月17日、テロリストのMRTAがリマに日本大使公邸を占拠。この国が抱える問題の根深さが表面化した。

人種
先住民(カンペシーノ)、白人(クリオージョ)、両者の混血(メスティーソ)に大別される。先住民族の言葉であるケチュア語、アイマラ語を話す人々は、国民のおよそ30%、クリオージョの比率はおよそ10%、アジアや欧米からの移民は1%程度で、残りがメスティーソとされる。アフリカ系の奴隷はペルーの気候に適応できなかったため、その子孫はほとんどいない。政治・経済の実権を握っているのは、クリオージョと一部のメスティーソ。

文化
先住民文化とスペイン文化が共存している。アクティブな(定期的に教会に通う)カトリック信者が多いと言われているが、一方、長い時間をかけて双方の融合が定着し、農村地帯の教会ではカトリック信仰+土地の神様をかたどった偶像などを見かけることがある。サッカーは盛ん。

言葉
スペイン語、ケチュア語、アイマラ語

日本大使公邸人質事件について

ペルーの写真 

旅行した時期は1996年10月〜11月です。



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