ホーム 60日間のラテンな旅行体験記 インデックスペルー

アレキパは湿度が9%


昨晩、フロントの女のコにタクシーの予約を頼んだ。そうしたらなぜか、しばらくして別の男性が部屋までやってきた。

「タクシーをもっと安く手配しようか?」

「でも、もう決めちゃったから…」

「だったらTシャツも売ってるんだけど、買わない?」

「いや、足りてるし、荷物増えるし…」

彼はあっさり去り、別に何も起こらなかったが、まだ真っ暗い朝の4時半にひとりでタクシーに乗るのは、ちょっと不安。どこかに連れて行かれちゃったりして…。

ホテルの入口に止まっていたタクシーのなかを覗きこむと、若いドライバーが爆睡しているので、ノックしてみた。彼は慌てて起き上がり、ドアを開けてくれた。

「年はいくつ?」

彼は背筋を伸ばし、律義に運転しながら質問した。

わたしは疑われない程度に、少し若く答えてみる。

「じゃあ、ボクはいくつに見える?」

こんな早朝から年齢当てゲームになってしまった。わたしはバックミラーをじっと見て答えた。

「27歳!」

「やるなあ。もうすぐ誕生日が来て、27歳になるんだ」

いい感じになってきた。

「ペルーって食べ物がおいしいよね。特にお魚はサイコー!」

ペルーを持ち上げるつもりで、そう言ってみた。

「サカナは高いから、もう3か月も食べていない」

彼は笑顔で、淡々と答える。

「お肉もおいしいよね、ハムとか…」

取り繕おうとして重ねて質問したが、フォローにならなかった。

「肉? ハム?」

彼はおおげさに驚いてみせてから、続けた。

「肉はもっと高いから、もう6か月も食べていない」

こんなふうに書くと、なんだかとても悲惨な雰囲気だったように思えるかもしれないが、そうでもない。実際に食べているのか、食べていないのかはわからないが、あっさりとした独特のユーモアで、笑い飛ばしているような感じなのだ。

ペルー人は楽天的だといわれる。暗くなることもあるんだろうけど、前向きに生きていく。

背筋を伸ばしてまじめに運転する彼だが、信号が赤ならよく見てから通り抜けたためか(他のクルマもみんなそうしていた)、わたしたちはあっという間に空港に到着。ペルー航空のB−727型機もまったく遅れず、定刻通り、アレキパの空港に到着した。

アレキパ空港は乾いた平地に、セスナ機たちが停まっている小さな空港だった。富士山によく似た山が、わたしたちを見下ろしている。懐の深そうな、穏やかな山である。荷物を持って外に出ると、わたしの名前を書いた紙を持って立っている女のコを発見。

「わたしはガイドのアナ、アレキパはとっても美しい街だから、きっと気に入ってもらえると思うわ」

彼女は堂々と喋る、若くて魅力的な女のコである。まだ学生で経営学を専攻しているという。

アレキパはリマから飛行機で1時間15分ほど、人口約50万人(1981)のペルー第二の都市だ。ペルー南部の商業の中心地で、紡績、織物、セメント製造などの工業が盛ん。標高は2380メートルである。アレキパとはケチュア語で「ここにとどまる(滞在する)ことができる」という意味。

標高3500メートルのクスコよりは低いが、ちょっと息苦しいような気が…。

同じ飛行機で到着したイタリア人やフランス人は、大型バスに乗り込んだが、スペイン語グループは、わたしのほかに子供連れの夫婦が一組だけ。とてもコンパクトなツアーになった。

ミニバスの窓から、例の富士山にそっくりな山が見える。

「あれはミスティ山、ケチュア語で<偉大なるセニョール>っていう意味なの。休火山だから安心してね」

アナが説明してくれた。

ホテルで少し休憩してから、市内観光を開始する。

展望台、教会(古来の宗教とキリスト教がミックスした十字架が印象的だった)、広場やカテドラルなどを見てから、本日のメインイベント、サンタカタリーナ修道院へ。

このときアナがツアーのメンバーのひとりである2歳の女のコに向かって、「バモス(行きましょう!)」というところを、幼児語のように「バモシュ!」と言ったような気がしたのは、空気が薄いせいか…?

サンタカタリーナ修道院は1579年に建立された歴史ある女子修道院。敷地内は専門のガイド(別の女性)が案内してくれるのだそうだ。

「中世の昔は、結婚するか、修道女になるしか選択はありませんでした。修道女とは、つまり神様と結婚するわけです」

オンナの道は二者択一、今の世の中に生まれてよかったのだろうか、それとも…。

「ただしこの修道院に入るためには、たくさんの貢ぎ物が必要でした。貢ぎ物の量によって、お付きの人の数などの待遇も変わったのです」

そうか、やはりいつの世もお金次第だ。

「それぞれが個室を持っていました」

専門のガイドに導かれ、わたしたちは個室を見学した。質素な造りだが、風通しのよい、広い部屋だった。お手洗いも台所もついている。ただし冬は寒いかもしれない。

「お風呂はついていないのかしら?」

これでお風呂がついていれば、ホテル状態である。気になったので質問してみた。

「お風呂は別です。だいたい昔は月に1〜2回しかお風呂には入らなかったのです」

それはキツい。でも考えてみれば、日本でも紫式部の時代には、ほとんどお風呂には入らなかったっていうし、まあ慣れだろう。

内部は迷路のように入り組んでいる。細い路地には「セビリヤ」「ブルゴス」「グラナダ」などスペインの都市の名前が付けられている。壁の色はちょっとくすんだ赤、かなり派手な色である。

「壁の色くらい派手にしなければ、やってられなかったのです。1968年までは厳しい規律があり、この修道院の門をくぐった者は、二度と外界に出られませんでした。家族との面会は許されていましたが、しょっちゅうというわけにはいきません。それも、こんな方法だったのです」

わたしたちは面会場所に案内された。そこは部屋になっていたが、壁にはめ込まれた木製の回転窓があるだけだ。

「外界の家族は、回転窓の台に食べ物などの差し入れの品を置きます。回転窓をグルッと回わし、修道女たちが差し入れの品を受け取るというシステムです。回転させるときに隙間ができるので、顔を見ることもできます。ただし、修道女は家族の顔を見れますが、家族は修道女の顔を見ることができません。この部屋には他に窓はないので、真っ暗です。中から外は見れても、外から中は見えないのです」

なるほど、神の元へ嫁がせた娘に会うことは許されないのか。しかし何もそこまでしなくても、という気はする。

「ここでは今も22人の修道女たちが生活しています。いちばん若い修道女が24歳、いちばん上は90歳です」

「いまでも貢ぎ物が必要でしょうか?」

気になるところである。将来、もしも行き倒れそうになったら、行き倒れるまえにペルー行きの片道チケットを買い、この修道院の門を叩くというのはどうだろう?

「いまは必要ありません。必要なのは神に仕える御心のみです」

「外出はできるのですか?」

「ええ。もちろん制服を纏ってですが」

好きな服装で歩けないのは、ちょっとつまらない。だんだん真剣になってしまった。

「ここでは修道女たちが作った製品を売っています」

売店で小さな容器に入ったクリームを購入した。7ソル(約315円)は、ペルーの物価を考えると高かったが、わたしの肌はいつになく乾いていた。

アレキパの湿度は9%だそうだ。肌も唇も乾く、喉も渇く、ノートはまるまる、夜に干した洗濯物はクローゼットの中に干しておいても、翌朝にはぜんぶ乾いてしまう。

さっそく塗ったクリームはナチュラルで、牛乳の匂いがした。

(本文中は1ソルを45円で換算)

次は、『いいオトコ現れる!』

ペルーの写真 

旅行した時期は1996年10月〜11月です。



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