ホーム> 60日間のラテンな旅行体験記
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小舟でジャングルロッジに入っていくの巻 |
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飛行機の高度が落ちると、地面全体が熱帯雨林で覆われ、深緑の空のように見えた。びっしりとジャングルが敷きつめられている感じなのだ。更に高度が下がると、くねくねと茶色の川が流れているのが見える。ああ、ジャングルだ! 飛行機は揺れたが、何事もなく到着。隣りに座っていたおじさんをふと見ると、彼は十字を切っていた。無事に着くのはわかっちゃいるけど、やっぱりこわいんだよね、飛行機って…。何度乗ってもドキドキの連続だが、これがけっこう楽しい。こわがりのくせに、乗り物好きのわたし。 飛行機のタラップを降りると、カラダが熱気に包まれた。湿度がそうとう高いようだ。迎えに来てくれた大きなバスは、鮮やかな色彩の全面開放型。フロントガラスも開閉でき、風通しがとてもいい。フィリピンなどでよくみかける乗り合いバスを大型化したようなタイプだ。ガタガタと大きな音をたてながら、町に触るような感じでとてもゆっくりと走っていく。 わらぶき屋根の民家やコロニアル様式の建物、ディスコもある。現在の人口はおよそ17万人ほど、思っていたよりも小さな町という印象だ。19世紀後半から今世紀初頭にかけて天然ゴムの採集が盛んだったころには、もっと人口が多かったという。 30分ほどバスに揺られてホテルに着いたが、とても小さい部屋はさほどきれいでもなく、エアコンの音がとても大きい。でもエアコンを消すととてつもない熱気が襲って来るので、散歩に出ることにした。 ホテルのすぐ近くにはアマゾン川。茫洋と流れる大河アマゾン、向こう岸に広がる熱帯雨林、こちらの岸辺に建っている木造の張出し窓がついたスペイン北部風の古い建物とが、不思議なコントラストを醸しだしている。 日曜日のせいか、人通りが少ない。だが、至るところからテレビのサッカー中継の音が聞こえて来る。 中央広場でいちばん大きなレストランに入ると、黒山の人だかり、熱狂の嵐! 韓国サムソン社製の大画面テレビでは、ペルー対ベネズエラのサッカーの試合が中継されているのだ。シュートをすれば大歓声、シュートが決まればお互いの肩を抱き合い、子供たちはジャンプ、口笛が鳴り響く。すごい一体感だ。 「ねえ、豆買ってくれない?」 物売りの少年は、いっけんして外国人とわかるわたしに1度だけ声をかけたが、その後はサッカーに熱中していた。 試合は4−1でペルーが勝利!
その晩は夜遅くまで行われていた祝賀パーティの模様を、テレビで中継していた。そう、今日は日曜日。テレノベラがない長い夜が始まった。 翌日の朝、9時15分に出発すると言われたが、のんびりしている。やっと出発したと思ったら、例の風通しのいいバスでイキトス市内をグルッと回り、何人かの乗客をピックアップし、またホテルに戻ってきた。 「あら、わたしたちのホテルだわ」 いっしょのツアーのアメリカ在住ペルー人夫婦が明るく叫ぶと、誰かが答えた。 「まあ、シティ・ツアーみたいなもんさ」 テレビカメラのような大きなビデオを抱えた若者の集団が乗り込んで来て、さあ本番、港へと向かう。今日は船でアマゾン川を上り、ジャングルロッジに宿泊するのだ。 大きなビデオは「テレビカメラのような」ではなく、ほんとうにテレビカメラだった。外国では大きな古い型のビデオを肩に乗せながら撮影している観光客がたまにいるので、てっきりそのテかと思ったのだが、彼らはリマ市にある大学の学生で、授業の一環として制作するドキュメンタリー・フィルムを、実際にテレビで放映するのだという。 若者の集団にはかわいい男のコがひとり。褐色系の肌を持ち、目鼻立ちはハッキリしてて、目の色が緑+青+茶色で、とてもエキゾチックな顔立ち、ちょっと魅力的。 しかし彼とはあまり喋る機会がなく、ホセ君という別の男のコが港までの道中のパートナーとなった。 「年はいくつ?」 定番の質問その4が来た。ちなみに、その1は「君はどこから来たの?」、その2は「名前は何ていうの?」、その3は「どこでスペイン語を覚えたの?」。親密度が増すと、その4が来る。 「いくつだと思う?」 いつものようにクイズ形式にしてみたら、彼は真剣に考えている。 「ボクと同じくらいかな」 「あなたいくつ?」 「22歳」 わたしは思わずニンマリと、ほくそ笑んでしまった。 「まあ、だいたいそんなところね」 ホセ君、ごめんなさい。たわいない嘘だと思って許してね。でも人生を2度生きているような、至福の喜び…。 港が近づくと道のデコボコが激しくなった。舗装されていない道に砂埃が舞い、よどんだ水たまりがところどころにある。両脇には高床式の家が建ち並び、痩せた犬が子供たちといっしょに走りまくっていた。この港がジャングルへの入口だ。 「船」ではなく、「舟」だった。エンジンはついているが、ボートをひとまわり大きくした程度の小舟である。「最大乗客数30人」と書いてあるけど、そんなに乗ったら沈みそう…。続々と観光客が乗り込み、ジャングルロッジ用と思われる食料品や飲料などが手際よく積み込まれていく。ホセ君もいっしょに来るのかと思ったが、彼は陸で手を振った。 ボートが動き出し、沿岸風景が流れていく。港に近いわらぶき屋根の村落には電信柱があり、電線が張られている。つまり電気があるということだが、小舟が進んでいくに連れて、電信柱や電線は姿を消す。 「アマゾン川の奥地に住む人々は、この川で体を洗い、この川で洗濯をし、この川の水を飲むんだよ」 ガイドのアルベルトが淡々と説明した。 イキトスはマラニョン川(アマゾン川の本流にあたるペルーの川)に面した港町だが、「ほーら、マラニョン川だよ」とはあまり言わない。やはり「アマゾン川」と呼ぶのが一般的なようだ。 わたしたちが出発した港は、なんとか川という支流にあるそうで(アマゾン川の流域面積は、日本の国土の約18倍もあるので、数え切れないほどの支流がある)、しばらく行くと本流のアマゾン川(マラニョン川)に行き当たった。 いままで一面が黄土色だった水の色に、濃淡が現れた。やや黒っぽい水、茶色っぽい水、黄土色の水…。いくつかの支流から流れ込んできた性質の違う水は、合流しても混じることがないのだという。 海のような川が広がり、岸辺にはジャングルが果てしなく続いている合流地点、なんだか自分がいままで以上にちっぽけに思えてきた。1時間ほどでジャングルロッジに到着した。 まずはお昼ごはんである。ビュッフェ形式で、アマゾン川で獲れた白身の魚のフライ、バナナやユカ(芋の一種)のフライ、ゴハン(長粒米)、フルーツ、サラダなどバラエティ豊かなメニューが並ぶ。 フライが多いが、わたしの胃が丈夫なのか、あっさりした油を使っているからなのか、まったくもたれないし、ユカは口のなかでトロける感覚が気持ちいい。そして何よりゴハンがあるのがうれしい。暑いところではちょっとパサパサしている長粒米のほうが、おいしく感じられるようだ。 食事が終わり、2時間ほど休憩してから、軽いジャングル探検へ出かける。このときに体験したジャングルも、鬱蒼とはしていない。熱帯雨林というよりは、薮をかきわけながら進んでいく感じだ。 薮をかきわけ終わると小舟が待っていた。今度の小舟はエンジンがない。手こぎで向こう岸まで連れていってくれた。岸に着いたら、先住民が昔ながらの上半身裸状態で顔に絵の具を塗り、輪になって踊りを踊っていた。 「観光客向けの先住民」なのだろうが、なんだか冒険者になった気分。ボーッとしていると小柄な女性が近づいてきて、わたしの手を取り、「いっしょに踊りましょう!」というしぐさをする。そのままスルスルと輪に加わり、わたしは彼女たちといっしょに踊り始めた。 踊り終わると、物売り攻撃が開始された。ひとつ5ソル(約225円)だと言っていたネックレスは、1分後には5つで15ソルまで下がった。が、同じツアーに参加した男性は、ふたつで3ソルで買ったという。値段交渉が甘かったか…。 が、よく考えてみるとひとつ140円か70円かの違いである。やはり人間が小さすぎる、こんな秘境チックなジャングルまで来たというのに…。 弓矢もきれいだったのでご購入、これはひとつ3ソルである。彼らはわたしを優良顧客と見てくれたらしく、「このネックレス1ソルでいいよ」と言う。この際、豪遊してしまおう(?)と意気込んだら、もう細かいのがなかった。 「50センターボ(セント)しかないんだけど」 そう言うと、物売りの子供の表情がにわかに曇った。 「それじゃあ、チップ!」 力強い。 若い女のコたちが囁き合ってお喋りしていると、「シーッ!」と注意された。注意されてもまた囁く。また注意される。それから静かになったが、彼女たちは喋りたくて仕方がないらしい。ときどき「スーッ…」と息を吸い込んだり、息を吐いたりする、その息遣いが沈黙の辛さを物語っているようだ。 息遣いが聞こえるほどの静けさの中で、みんなが息をひそめて自然の音を聞いている。目を閉じて瞑想状態になると、自然に包み込まれたような不思議な感覚が訪れた。厳粛な気分のまま、手こぎでロッジに戻る。 ジャングルロッジに電気はない。水道の蛇口から水は出るが(飲料は不可)、テレビもなければ、部屋には電話もなく、灯りはランプだけ。同じツアーのアメリカ在住ペルー人夫婦とビールを飲みながらお喋りして、早めに就寝。 関連リンク テレノベラ 旅行した時期は1996年10月〜11月です。 |
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