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ガルシア=マルケス 彼、そしてテレノベラとの関連性 1/16/2000 1928年、コロンビア、カリブ海沿岸地方のアラカタカ生まれ(1927年生まれという説もある)。ボゴタ大学法学部中退後、新聞記者、脚本家などを経て、1955年に処女作『落葉』を発表。『百年の孤独』(1967)は、世界中にセンセーションを巻き起こし、1982年、ノーベル文学賞を授賞。その他の代表作は、『大佐に手紙は来ない』『予告された殺人の記録』『戒厳令下チリ潜入記』など多数。彼の作品は、その後のラテンアメリカ芸術に大きな影響を与え続けている。 革命後のキューバ政府の報道機関「プレンサ・ラティーナ」のニューヨーク特派員として活躍した時期もあり、カストロとは現在も「料理のレシピを教えあい、いっしょに闘牛を見に行ったりする仲」といわれている。 本人は否定しているが、若いころには共産党員だったという説もある左派。「キューバがなかったら、(南米の)南端パタゴニアまでアメリカになっていただろう」「アメリカとはアメリカ大陸全体のことであって、合衆国だけをアメリカと呼ぶのは我慢できない」などの発言もある。 コロンビアでは、作家として、また左翼的な人物としても大きな影響を持ち、誘拐犯が人質開放の条件として、「ガルシア=マルケスをコロンビアの大統領にすること」を提示した事件もあったという。しかし彼は「左翼的イデオロギー」に凝り固まってはいない。ゲリラの指揮官と対話を進める一方、クリントン大統領とも食事を共にし、コロンビア軍幹部とも会談する。「わたしがさまざまな形の権力者に強く引かれるのは、文学上の理由ではない。ほとんど人類学的な興味からだ」。 マコンドという村を建設したブエンディーア家が、栄枯盛衰を経て、消滅するまでの100年を描く彼の代表作である長編小説。現実と幻想の交錯、死者との自由な交流など、「魔術的リアリズム」の真髄がいきづいている。32回の反乱を企てた大佐の行為は、独立以降絶間なく続く左右抗争の歴史を、バナナ会社の進出と軍隊による労働者の虐殺は、侵略主義的な北アメリカの巨大国家を、その他膨大な数の挿話を通して、スペインによって「発見」された以降のラテンアメリカの500年に渡る壮大な歴史をさまざまな比喩、暗喩を用いて描いている。 この本がラテンアメリカで発売されたとき、「本はホットドッグのように売れた」と形容されるほど、爆発的に売れた。ラテンアメリカ人は、この物語の登場人物たちに、自分や自分のまわりの人間と同じ孤独を見出し、運命に翻弄される彼らの姿に自らを重ねあわせたのだという。 挿話、寓話をふんだんに取り入れ、ある村の100年間の栄枯盛衰を描きつつ、「魔術的リアリズム」で死者と交流しながら、比喩・隠喩的手法で、スペインに侵略されてからのラテンアメリカ人の孤独を掘り下げる・・・。そんな長くて難解な本が「ホットドッグのように売れる」??? 「土を食べる子供」「自分のまわりにチョークで直径3メートルの円を描き、その中には誰も立ち入らせない大佐」「情念で他人を不幸にしてしまう女」「流れ出た血が通りを走り、トルコ人街を通り抜け、階段を上り下りして、直角に曲がって母のもとにたどりつく」・・・。この本を満たしているシュールなエピソードに潜む孤独。改めて読みなおしてみると、深くて暗くて大きな「人間の孤独」っていう空洞が見えちゃったみたいで重い。 預言者メルキアデス、さすらう魂、すでに羊皮紙に記録されていた結末・・・。孤独に加えて、この物語を支配するのは運命論と不条理、超自然現象、そして宗教の違いを超越した無常の概念。100年の年月をかけて、無から無へと帰っていく。 死んじゃったともだちがそばにいるって感じることがあったり、昔もらった彼女の年賀状がぽろっと出てきたとき、彼女はメッセージを送ってる。生を受け、死ぬまで、人生はうたかたの夢。「魔術的リアリズム」の入口は、そんなところにあるのかもしれない。 --情念が運命を変える〜『百年の孤独』のあるエピソード-- 姉妹同然に育った娘たちが、同じ男性(ピエトロ)に恋してしまう。親はレベーカとピエトロを結婚させるよう手配し、もうひとりの娘アマランタは、州都に出す計画をたてる。アマランタは、密かに心に誓う。「レベーカが彼と結婚できるのは、わたしが死んだとき」。 ある日、通夜のどさくさにまぎれて、アマランタはピエトロに燃える恋心を告白するが、「すでにレベーカと婚約した。ボクには弟がいる」とかわされる。燃える恋心は深い怨念に変わり、彼女は再び誓う。「自分の死体で家の戸をふさいでも、ふたりの結婚を邪魔してみせる」。 すると兄嫁(天使のような善人)が自家中毒であっけなく死んでしまって喪中となり、レベーカとピエトロの結婚式は無期延期。そうこうしているうちにレベーカは、兄妹同然に育ったホセ・アルカディオに突然クラクラきてしまい、ピエトロとは破局。親に勘当されながらも、レベーカとホセ・アルカディオはいっしょに暮らし始める。 取り残されたピエトロは、アマランタに求婚するが、彼に対する怨念を抱いて生きる彼女は冷たく拒絶(愛と憎しみがドロドロに渦巻いてる状態)。失意のピエトロは手首を切って自殺し、邪念が次々に現実になったことに恐怖を覚えたアマランタは、かまどの火で自分の手首を焼く・・・。 この「濃さ」は、やっぱテレノベラの世界。情念が運命を変えるんだわ・・・。まとめると短い期間のできごとみたいだけど、情念は何年、何十年にも渡って注ぎこまれるのね。この物語では、アマランタは死ぬまでレベーカを憎み続け(実は愛だったのかもしれない)、レベーカの葬儀の手順を計画することで、老後の時間を費やした。でも死は先にアマランタに訪れ、死によって、すべての苦しみから開放されるの。 ガルシア=マルケスがテレノベラなのか、テレノベラがガルシア=マルケスなのか・・・。というより、テレノベラ的な感覚や文化は、ラテンアメリカに根づいているもの、ラテンアメリカ人の心の琴線に触れる何かがあるって考えたほうが自然。 ところで、コロンビア産の傑作テレノベラ"LAS JUANAS"では、主人公フアナ・バレンティーナが、報われぬ恋のお相手ルーベンの結婚を阻止しようと情念を注ぎ続けた結果、結婚式が延期になったり、挙式当日花嫁が失踪したりした。 --"LAS JUANAS"、ガルシア=マルケスのインスピレーション-- テレノベラ"LAS JUANAS" では、他にも『百年の孤独』から得たアイデアがたくさん使われている。(上が LAS JUANAS の例、下が『百年の孤独』) *物語の発端 20年以上も前に浮気した5人の女性の娘たち、5人のフアナが突然現れる。 *血のつながりがある証明、父と同じ魚のカタチをしたフアナたちのアザは本物。強力な調合液でこすっても消えない。 *姉フアナ・バレンティーナと弟ルーベンの禁断の恋。 *キスすることで感染する「伝染性・恋愛できない病」の流行。 *歩く百科事典、何でも知ってるマジカルな男の存在。 *熱帯地方を寒波が襲い、悪寒を訴える人々が続々現れる。 *悪人が所有する牧場の牛の乳が水になった。 共通するディテールは、まだまだたくさんあって、これらのディテールはエッセンスと密接に絡み合っている。女系家族の強き母性、占師が語る未来と運命論、超自然現象を生み出す独特な風土文化・・・。つまり"LAS JUANAS"は、ガルシア=マルケスの「魔術的リアリズム」をベースとして、不条理や無常をうすくしたコミカルなテレノベラを製作するのが、コンセプトだった・・・って考えることもできる。 "LAS JUANAS"の舞台で、実際にロケが行われたのは、コロンビアのカリブ海沿岸地方の「内陸部にある」小さな村コロサル。この村は、ガルシア=マルケスが少年時代を過ごした沼地の村(スクレ)の近くにあって、『百年の孤独』の舞台マコンドを思い起こさせる。ロケ地見たさに、実際この村まで行ったんだけど、とにかく絶望的に暑い。内陸部の沼地では風も動かないし、誰も変化させることができない閉塞感がある。『百年の孤独』でたびたび描写された、存在の耐えられない暑さ・・・。 よそ者のわたしたちは、歩いて、村の人々に"LAS JUANAS"の「ロケ裏話」をきいたり、写真を撮ったりすることしかできなかった。でもこの村には「何か」が潜んでいたっていう妙な確信がある。 ヨーロッパやアフリカの文化と、古来からの神話、寓話などが混ざりあったこの地独特の風土文化だったのか、それともガルシア=マルシア的な魔術にかけられてしまっただけなのか、あるいはこの村を支配している「見えない」左翼ゲリラの監視の目だったのか・・・。 いずれにしても、『百年の孤独』とマコンドが切り離せないように、"LAS JUANAS"の世界を創りあげるために、コロサルは不可欠な存在だったと思う。コロンビアのある面を表す縮図として・・・。 さて、深い深いガルシア=マルケスの世界だけど、笑えるエピソードも盛り込まれてる。特に好きなのは、情念を注ぎこみ、まわりの人間を不幸にしまくったアマランタの最期。 晩年を迎え、死神に出会った彼女は、自分が死ぬときを予告される。で、その当日、彼女は村人たちに、「今日の夕方、わたしは死ぬから、死者たちにメッセージがあれば、わたしに託して」と告げる。 あれも言いたい、これも言いたいと村中はパニックになり、夕方には村人たちはぐったり疲れ、元気なのは死ぬ本人アマランタだけ。彼女は余裕しゃくしゃく、足のタコなど削ってた・・・。 彼女は予告通り、この日の夕方天に召されるんだけど、あれだけドロドロした愛憎劇を演じたのに、あっさりとしたこの最期! やっぱ、ラテンだわ・・・。(こんなにブラックじゃないけど)この系統の笑いは、"LAS JUANAS"の随所にちりばめられています。 --オマケ・・・代々ずっと同じ名前-- ただでさえ複雑な『百年の孤独』をなお一層ややこしくしてるのは、物語の核となる「ブエンディーア一族」は、6代に渡って延々同じ名前をつけ続けるから(同じ名前をつけることで、輪廻を表現している)。男たちはみーんな、ホセ・アルカディオか、アウレリャーノ!!! 創始者 ホセ・アルカディオ・ブエンディーア (フルネームで呼ぶ) そして、女性も「レメディオス」「ウルスラ」「アマランタ」が何人もでてくる・・・。 テレノベラでも父がホセ・フェルナンド、息子がフェルナンド・ホセなんてのはよくある。実際、あるともだちの家では、父がカルロス、息子(兄)がカルロス・エドゥアルド、息子(弟)がカルロス・アンドレスで、一家にカルロス3人状態。 日本でも、父の字を一文字とって・・・っていうのはよくあるパターンだけど、ここまではやらない。ラテンは、家族の絆や家系を大切にするから、こういう名前のつけ方するみたいね。 でもいまどきは、ラテン圏でも、ナタリーとか、外国語の名前をつけるのは、珍しいことじゃなくなってる。 余談だけど、テレノベラ(特にメキシコ テレビサ系)の男性の主役の名前は、たいてい「組み合わせ系」。ルイス・フェルナンドとか、ルイス・フェリペとか・・・。ま、確かに、「ホセ」とか「パコ」だけじゃ、現実的で、夢にならないもんね。 参考:NEWSWEEK 1996年7月31日号、新潮社刊『百年の孤独』(鼓直 訳)
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