ホーム> 60日間のラテンな旅行体験記
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GERI続き、体力落ちるが、パトリシアとうれしい再会 |
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眠れないほどではなかったが、どうもスッキリしない。 友人たちに連絡を取らなければ…と受話器を取ったが、連絡はとれない。 友人のひとりのパトリシアの勤務先に電話をすると、とても親切なセニョーラが「あと15分で来るわ!」と教えてくれたが、2時間半たっても彼女は来ない。 「とにかく絶対に来るから心配しないで、だいじょうぶよ!」 セニョーラは励ましてくれるのだが、彼女は来ない。 昨日は外に出たら元気になったので、もう一度その手を使ってみたが、どうもフラフラする。昨日は中華系のファースト・フードで元気になったので、今度は「バーガーキング」でウォッパーセットを食べてみたが、これが大失敗。お腹の調子がよくないときにハンバーガーはいけません。力尽きホテルに戻り、寝ながらテレノベラやワイドショーを見た。 ワイドショーでは"IKEBANA"(生け花)特集や、スペインの有名歌手ミゲール・ボセのコンサート情報などを放送している。チャンネルを回していたら(リモコンはついていなかったので、ダイヤル式のチャンネルを回す。なんか懐かしい感覚)、吹き替えの時代劇をやっていた。 「セニョーラ!」「セニョール!」とスペイン語で呼び合っている時代劇は、とてもエキゾチックではあった。 しかしせっかくペルーまで来たのに、昼間からこんなことしてるなんて…。とっても不本意だったが仕方ない。長く旅行をしていれば、風邪もひくし、下痢もすれば、生理も来る。諦めて2時間ほど寝たら、少し調子がよくなった。しばらくして友人のパトリシアから電話があった。彼女と会う約束をして、ちょっと調子が上向く。 上向きになったところで、再度外出にトライする。ペルーには2週間ほど滞在する予定なので、ツアーをいくつかアレンジしたかったのだ。ナスカの地上絵やクスコ、マチュピチュなどの有名どころは前回の訪問でクリアしていたので、今回はちょっとマニアック(?)な場所を訪れたい。 散歩中に見つけた、ホテルのすぐ近くにある旅行代理店へと向かう。旅行関係の仕事をしている別の友人に頼もうと思っていたのだが、彼の勤務先の連絡先が見つからない。まあ、これも仕方ないことだろう。 「たとえばこのツアーなんかどうかしら。ほら、こんなに充実した内容よ。あら、ホテルをシングルで使うと…、やだ、120ドルも高くなっちゃうのね。だったら(ひとりで旅行するより安くて済むから)わたしたちもいっしょに行ったほうがいいわね。カッカッカッ! このツアーのことは忘れましょう。さて次は…」 こんな調子で話は進んでいく。 ペルーアマゾンのイキトスは、ぜひ訪れたい場所だった。アマゾンというとブラジルを連想するが、巨大な熱帯雨林地帯はペルー、コロンビア、ボリビアなどの国々をまたいで広がっている。 「イキトスならこのツアーがいいわ。ほら、値段もお買い得よ」 「航空会社はどこかしら」 「アエロペルーよ」 ちょっと前(96年夏ごろ)、アエロペルー(ペルー航空)は落ちた。ちょっと遠慮したいような気もしたが、イキトスはジャングルに位置しているので、陸上の交通手段ではアクセスできない。飛行機か、船を利用することになる。 「わかったわ。じゃあ、カハマルカもアエロペルーかしら」 「いいえ。アエロコンドルよ」 アエロコンドルか…。 「大丈夫?」 「ええ、これが時刻表よ」 じゃなくて…、わたしが尋ねたいのは、安全性なのだ。まあ、それは神のみぞ知ることなのだが。 的がハズれたと気がついた彼女は、アエロコンドルの写真を見せてくれた。そこにはとてもかわいいプロペラ機が写っている。キューバで乗ったプロペラ機とよく似ている。わたしは思わず笑ってしまった。 「ああ、もしかして安全性を気にしているのね」 事務所の奥で仕事をしていた別の女性が察してくれた。 「大丈夫よ。コンドルは落ちたことがないの。わたしも乗ったけど、全然問題なかったわ」 なるほど…。そうとしか言いようがない。 行き先はイキトス、ペルー第二の都市アレキパ、そしてこの旅行代理店お薦めのカハマルカに決定だ。 行き先を検討していたとき、カンペシーノ(先住民)の6歳くらいの女のコがガムを売りに来た。「ねえ、買って!」とガムがいくつか入った小さな箱を差し出す子供に、旅行代理店の担当者の女性は優しく言う。 「ごめんなさいね、ガムはいらないの。でもね、このキャンディをあげるわ」 子供はちょっとだけ笑顔を見せ、キャンディを受け取ると出ていった。 いろんな国で、物売りや物乞いの子供につきまとわれたことがある。そんなとき、わたしはどんな態度をとっていただろうか? キツい言葉を投げかけたことはなかったか? 彼女のやさしい言葉を聞いて、目からウロコが落ちた。 さまざまな事情で、学校に行けずに働いている子供たちがいる。お金を求める子供たちもいる。とても根の深い問題だが、少なくとも彼らに罪はない。言葉や態度でムチを打たれるような扱いを受けて育った彼らが大きくなったときのことを考えると、ぞっとしてしまう。 やさしく接すること。わたしに何ができるのかはわからないが、最低限、最小限、やさしくすることくらいはできるんじゃない? 同時に、旅行代理店に勤務する彼女と、カンペシーノの子供の間に存在する大きな落差をまざまざと見せつけられたような気がした。長い時間をかけて作られた、与える者と施しを受ける者がはっきりと二分化されている社会構造があるのだ。そして彼らは、子供でさえもそのことを知っていて、お互いにどこか醒めているような気がしてしまう。 「よくなった」と言われているペルー、しかし歴然とした「差」は、このあともそちこちで顔を出すことになる。 ところで担当のこの彼女は、日本人の友人に顔つきが似ていたので、とても親近感を持った。外国を旅行していると、人種を超えて「似ている」人々に会うことがけっこうある。 背が高い彼女は、むかしバレーボールをやっていたという。 「アトランタのオリンピックでバレーボールを見ていたら、日本人チームにはカッコいい男のコがたくさんいたわ。日本人のいいオトコをひとりでいいから連れてきてくれない?」 ハートマークを浮べたまなざしで彼女は言う。オトコは提供できないが、その代わりに折鶴を作ってあげたら、彼女は大感激! メモ用紙で作った折鶴はカウンターに飾られた。 旅行代理店ではペルー時間が流れていた。ここのドアを開けたのが午後の4時、のんびりしていたらいつのまにか2時間が過ぎ、時間切れ終了となった。そんなわけで最終的な料金の提示やバウチャーの受け取りなどは、明日に持ち越す。 「まるでウソみたいよね」と何度も言いながら、彼女とミラフローレスの街を歩く。公園でお喋りしたり、記念撮影をしたり、お昼を食べたり…。 旅行代理店にも顔を出した。料金は提示されたが、バウチャーはできていなかった。クレジットカードはほんの一部分しか使えないというので、銀行に行きキャッシング。ゲットしたお金を持って旅行代理店へ戻るが、やはりバウチャーはできていなかった。バウチャーの受け取りは夕方となる。 振り返ってみると、旅行代理店に足を運んだのは合計4回。のんびりしたペースだが、不思議とイライラしない。合理的に隙なく仕事をしてくれると、確かに時間の節約にはなるが、こんなのんびりしたラテン系のペースには暖かみがある。あわてない、あわてない…。時間はかかっても、ちゃんとバウチャーは受け取れるのだから。 パトリシアとバスに乗って、ミラフローレスからセントロ(旧市街)へと向かう。高速道路の脇の植え込みには、芝生と花で文字が描かれている。見ているだけで気持ちが暖かくなるような広告だった。 ミラフローレスは東京でいえば、銀座か青山のような高級住宅街+ショッピング・エリアだが、セントロは庶民の町だ。色とりどりのパラソルを広げた露店がビッシリと歩道を埋めつくしている。 ここでパトリシアはガイドになる(実際、彼女はガイドとして働いているのだ)。 「以前、ミラフローレスの市長をしていて実績を挙げたXXX(名前は忘れてしまった)という人が、今度は(セントロが含まれる)リマ市の市長になって、街並美化キャンペーンを展開しているの。たとえば国立図書館など重要な建物のまえに、露店を出すことは禁じられてしまったのよ」 「そのわりには露店が多いよね」 「そうね。不法に出店している露店も多いのよ。ただ取り締まるっていっても、なかなかはかどらないのが現状ね」 確かにミラフローレスは洗練されていて、くつろげる。が、リマらしい魅力と活力がある街といえば、やはりセントロである。 露店の出店を制限すれば、仕事ができなくなってしまう人々も多いだろう。それに替わる仕事を政府は与えることができるのだろうか? 「これから行くところ(セントロ)では、バッグにちょっとだけ注意を払ってね!」 パトリシアは「ちょっとだけ」にアクセントを置いて、言った。 わたしたちはカテドラルとサン・フランシスコ教会を訪れた。 カテドラルで印象的だったのは、けっこうリアルな状態で安置されていたフランシスコ・ピサロ(スペイン人の新大陸征服者)の遺体と、スペイン+アラブ+インカの様式で作られた木造のたんすのような家具。 新大陸の征服者であるピサロの遺体が安置されているのは、けっこう不思議な光景である。カテドラルの向かいには、ピサロの銅像まで建っている(ラテンアメリカでピサロの銅像が建っているのは、現在ではペルーだけだそうだ)。シモン・ボリーバルや、サン・マルティンといったラテン・アメリカ独立の父たちの銅像は、いろんな国でよく見かけるんだけど…。それだけペルー人が物事にこだわらない、鷹揚な性格だということだろうか? 15世紀の後半に始まった大航海時代。それ以前のおよそ400年間に渡り、アラブ勢力がスペイン南部を中心に支配していた。そのためアンダルシア地方には、有名なグラナダのアルハンブラ宮殿など、数多くのアラブ様式の建築物が残っている。 アラブ様式が自国の文化に溶け込んだ状態で、新大陸の征服を目指して攻め込んできたスペイン。彼らが新大陸に建設した、征服する側の文化の象徴であるカテドラルは、生粋のスペイン様式、スペインを400年に渡って支配したアラブ様式、そして新大陸の土着宗教の象徴までも織り込まれた新たな折衷芸術によって彩られたのだ。教会の建物に動物や草花が彫り込まれているなんて、ヨーロッパでは考えられない。 次はサン・フランシスコ教会だ。教会の付属の図書室には、中世のものと思われる古書がうずたかく積まれており、タイムトリップして別世界にまぎれこんでしまったようだ。今にもドアを開けてピサロが入ってきそうな感じである。 そしてメイン・イベントは迷路のような地下道。頭蓋骨や骸骨がざっくばらんに積み重なっている、そのすぐ側を身をかがめるようにして歩いていく。心臓の鼓動が速くなった。 「ここって、監獄だったのかしら?」 パトリシアに尋ねてみた。 「いいえ、ただのお墓よ」 なんかとってもドンブリだわ。 冥福を祈りつつ地下道を後にして、パティオに出ると太陽がまぶしかった。吸血鬼になった気分。緑が溢れ、鳥が鳴き、壁はオレンジ+茶系のサンタフェ色で塗られている。 レストランの従業員とパトリシアは顔見知りだったので、「日本から来たわたしの大事なともだちよ」と紹介してくれた。とても感じがいい人たち、会う人、会う人、みんなとっても感じがいい。 身もこころもすっかりリラックスするが、相変わらずお腹はゴロゴロしている。ただ爆発しないのが救い。 サン・フランシスコ教会を出ると、サイレンが鳴り、白バイが走り、道路は通行止め、警官がてんこ盛りのまるで戒厳令のような状態になっていた。 「いったいどうしたのかしら」 「パナマの大統領が来ているのよ。フジモリ大統領と会談し、ドラッグ撲滅を誓いあうんだって」 それにしてもすごい警戒ぶりだ。わたしたちの行く手は阻まれているので、しばし見学をすることになった。 「パナマの大統領と会見…っていうよりは、大統領暗殺!って感じよね」 ホント、すごい警戒ぶり。 「ここからリマックに行って、グルッと回って、ミラフローレスまで、10ソル(約450円)だって。いいよね」 パトリシアはタクシーをサッとつかまえ、交渉する。観光客がひとりでタクシーに乗ると、だいたい2〜3倍になるだろう。 「OKよ!」 わたしたちはタクシーに乗り込んだ。 リマックはセントロのすぐそばにあり、闘牛場、裸足の並木道などの名所を持つ、下町っぽい風情がある町だった。裏手にあるセロ(ハゲ山)の斜面には、保護色の四角い家が立ち並んでいる。オレンジ色の夕陽のなかで、子供たちはサッカーボールを追いかけ、犬が走りまわり、埃が舞い上がっている。 信号で止まると、少年がイキのよさそうなバナナを差し出す。一房1ソル(約45円)。一房買って、ドライバーのおじさんとパトリシアとわたし、みんなで2本づつ食べた。おいしかったなあ。 ミラフローレスに戻り、公園を散歩。そして再度、旅行代理店に立ち寄り、ついにバウチャーを入手した。 旅行代理店を出て、パトリシアとふたりで暗い夜道を歩いていたら、いきなり声を掛けられた。 「お嬢さんたち、どこ行くの?」 ギョッして振り向くと、なんだ、旅行代理店の担当の彼女…。 事務所の外で会っても、いかにもミラフローレスに勤務するキャリア系っていう感じだが、そんな彼女も澄ました顔をしてコレクティーボ(個人営業の乗り合いバス。日本の中古ワゴンなどが第二の人生を歩んでいることが多い)に乗り込み、家路についた。 ほんとうはゴージャスにディナーもしたかったし、ディスコも行きたかったが、GERIのため体力が落ちているのをヒシヒシ感じていた。悪化しているわけではないが、まだまだ旅行は続くので、カフェでガマンすることにした。 パトリシアはフルーツサラダ、わたしはじっとガマンでマンサニージャというお腹にやさしいお茶を飲む。 「バナナは抜きね!」 オーダーするとき、パトリシアは忘れずに付け加えた。彼女は(わたしもだけど)、さっきバナナを2本も食べたのだ。 リマの3日間はあっという間に終わってしまった。パトリシアとの楽しい1日も一瞬のようだ。10日後にもう一度、半日だけリマに滞在するので、そのときにもう一度会おうね!と約束し、パトリシアとお別れ。 明日はアレキパへ向かう。朝は4時起きだ。テレノベラを見ながら、早めに就寝する。 (本文中は1ソルを45円で換算) 関連リンク テレノベラ 旅行した時期は1996年10月〜11月です。 |
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